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		<title>タグ“フロム”の公開資料</title>
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		<description>タグ“フロム”の公開資料</description>
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		<item>
			<title><![CDATA[「個人」と「社会」についての考察――フロム『自由からの逃走』を中心に]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53362/]]></link>
			<author><![CDATA[ by camsa10]]></author>
			<category><![CDATA[camsa10の資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 02 Aug 2009 00:42:44 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/958518609389@hc09/53362/" target="_blank"><img src="/docs/958518609389@hc09/53362/thmb.jpg?s=s&r=1249141364&t=n" border="0"></a><br /><br />「個人」と「社会」についての考察――フロム『自由からの逃走』を中心に
序
　「個人」と「社会」の関係について、社会学者は多様な論を展開してきた。そしてそれらは各人の理論・思考過程の根本的な基礎を成していたといえるだろう。以下では、フロム[352]<br />「個人」と「社会」についての考察――フロム『自由からの逃走』を中心に
序
　「個人」と「社会」の関係について、社会学者は多様な論を展開してきた。そしてそれらは各人の理論・思考過程の根本的な基礎を成していたといえるだろう。以下では、フロムの『自由からの逃走』における「個人」と「社会」に関する論理に立脚しながら、その対比としてデュルケームの理論を、また宗教改革の捉え方の違いに注目して、ウェーバーの理論を取り上げ、考察していく。
　また、同時にフロムの主要テーマである「ナチズムの心理」の過程を、現在の新自由主義が席巻する日本社会の諸問題と関連付けながら検討していきたいと思う。
1. フロムの「個人と社会」像
　フロムは主著『自由からの逃走』にて、ドイツでのナチズムの例から、全体主義へと民衆が傾斜していく心理過程を分析したが、その根底には以下のような「個人」と「社会」に対する視角があった。
　彼は新フロイト派として、歴史というものは社会的には規定されない心理的な要素の結果であると説明したフロイトの立場に反対すると同時に、人間の意識を超越した社会の存在を想定するデュルケームの理論に否定的であった..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[ポール・ラングランの生涯教育論の意義と生涯教育の歴史的変遷]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429317001@hc06/13515/]]></link>
			<author><![CDATA[ by aisiteiru730]]></author>
			<category><![CDATA[aisiteiru730の資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 12 Mar 2007 16:46:35 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429317001@hc06/13515/" target="_blank"><img src="/docs/983429317001@hc06/13515/thmb.jpg?s=s&r=1173685595&t=n" border="0"></a><br /><br />ポール・ラングランの生涯教育論の意義と、
それ以降の生涯教育の歴史的変遷(ハッチンズ、フォール報告など)を述べよ。
はじめに「生涯教育」とは1965年に、パリで開催された成人教育推進国際委員会において、ポール・ラングランによってはじめて話さ[344]<br />ポール・ラングランの生涯教育論の意義と、
それ以降の生涯教育の歴史的変遷(ハッチンズ、フォール報告など)を述べよ。
はじめに「生涯教育」とは1965年に、パリで開催された成人教育推進国際委員会において、ポール・ラングランによってはじめて話された教育理念である。
ではラングランが生涯教育を推進する理由あげ、そしてその意義を考えたい。
ラングランは理由を7つにまとめている。
①諸変化の加速②人口増加③科学的知識及び、技術体系の進歩④政治的挑戦⑤情報⑥余暇活動⑦生活モデルや諸人間関係の危機
これらがラングランの述べる理由である。
今日、世界は様々な分野において変化の激しいものとなっている。幼い頃の世界と、大人になったときの世界とでは、全くの別世界になりつつあるのである。さらに科学的技術の進歩もとどまる事をしらず、10年前には最新であったテクノロジーもすぐに時代遅れとなる。つまり青少年期の学校教育だけでは、生きてはいきにくい世界になってきているのである。常に現代を生きる「現代人」であり続けるためには、時代の変化とともに学び続ける必要があるという事である。それは「ゆりかごから墓場までの学習」と言..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[フロム、リースマン、日高六郎等の「社会的性格」について述べよ。]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429737201@hc06/10837/]]></link>
			<author><![CDATA[ by orange25]]></author>
			<category><![CDATA[orange25の資料]]></category>
			<pubDate>Wed, 23 Aug 2006 01:16:33 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983429737201@hc06/10837/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983429737201@hc06/10837/" target="_blank"><img src="/docs/983429737201@hc06/10837/thmb.jpg?s=s&r=1156263393&t=n" border="0"></a><br /><br />フロム、リースマン、日高六郎等の「社会的性格」（性格類型）について述べよ。
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G・W・オールポートは「性格」という言葉は、心理学には不必要だと言っている。オールポートによれば、性格とは「パーソナリティ」が評価されたものであり、南博も性[348]<br />フロム、リースマン、日高六郎等の「社会的性格」（性格類型）について述べよ。
　&rarr;
G・W・オールポートは「性格」という言葉は、心理学には不必要だと言っている。オールポートによれば、性格とは「パーソナリティ」が評価されたものであり、南博も性格はパーソナリティの一側面であるとしている。
パーソナリティという言葉はラテン語の「ペルソナ」に由来しているといわれ、ギリシア劇の舞台化面のことを意味している。浜口恵俊は、仮面劇の役者が仮面をつけることによってその役割を演ずるのと同じく、現代人も実生活の中で、周囲に期待される社会的役割を演じていると論じた。こんにちではペルソナという言葉は外面的なものから、内面的な意味を持つようになっている。現代人の自己には二面性があり、人生の中で道徳・倫理・慣習・役割などといった価値に自分を当てはめるために、真実の自己とは別に、まるで仮面をかぶるようにその役を演じることがよくある。現実社会では、周囲に期待される役割を演じられるかどうかが重要なのであり、本質的にそうであるかどうかはさほど重要ではないとさえ言える。
　日高六郎はこういったパーソナリティの「二重的性格」に注..]]></description>

		</item>
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			<title><![CDATA[エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』　ブックレビュー]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5282/]]></link>
			<author><![CDATA[ by imomusikaiko]]></author>
			<category><![CDATA[imomusikaikoの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 14 Jan 2006 22:22:25 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5282/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431331301@hc05/5282/" target="_blank"><img src="/docs/983431331301@hc05/5282/thmb.jpg?s=s&r=1137244945&t=n" border="0"></a><br /><br />　中世末期以来のヨーロッパ、及びアメリカの歴史は、多くの人々が政治的、経済的、精神的な自由を求め、自らの命を懸けて戦った革命的な歴史である。長い戦いの果てに、自由は勝利し、人民は枷から解放された。しかし、やがて驚くべき事態が発生する。弱者の[360]<br />『自由からの逃走』ブックレビュー
中世末期以来のヨーロッパ、及びアメリカの歴史は、多くの人々が政治的、経済的、精神的な自由を求め、自らの命を懸けて戦った革命的な歴史である。長い戦いの果てに、自由は勝利し、人民は枷から解放された。しかし、やがて驚くべき事態が発生する。弱者の権利を無視した独裁政治を特色とするファシズムの台頭である。ここで注目すべき点は、ファシズムの党首は、ただ権謀術策を用いて力ずくで国家を支配したのではなく、人民の支持を得て政権を握ったということだ。つまり、人民は、彼らの父祖が全力を尽くして勝ち取った自由を、いとも簡単に投げ捨て、権威に服従し、支配されることを望んだのである。
　..]]></description>

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