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		<title>タグ“ジンメル”の公開資料</title>
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		<description>タグ“ジンメル”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[《社会学》第２課題（旧版）]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/952794317263@hc11/100904/]]></link>
			<author><![CDATA[ by lady...]]></author>
			<category><![CDATA[lady...の資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 09 Feb 2013 18:08:19 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/952794317263@hc11/100904/" target="_blank"><img src="/docs/952794317263@hc11/100904/thmb.jpg?s=s&r=1360400899&t=n" border="0"></a><br /><br />テンニース、ジンメル、デュルケムが19世紀末に展開した議論の特徴として『人々の関係性』が共通としていると考えられる。
　彼等の議論をまとめ、現代日本社会への妥当性を事例を挙げて論じていく。
２、まず、テンニースの議論として、1887年『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト（共同社会と利益社会）』の特徴を述べる。
　この議論の中で、人間の意志の形式と人間関係や集団、社会の形態について考察し、近代社会の性格について論じている。人々の結びつきは人間の意志の形式であるとし、実在的・自然的な統一として理解される『本質意志』と観念的・人為的な統一として理解される『選択意志』に基づくとしている。
　本質意志による家族・地域社会などのような自然的な結合は、人々の間に何の打算もない全人格的な結びつきである『ゲマインシャフト』とする一方、選択意志による目的的な結合は個々人が互いの利益にかなう限りで部分的に手を結び合う打算的な冷たい関係にある『ゲゼルシャフト』の２種類に社会を分類したのである。
　続いて、ジンメルの議論として1890年『『社会分化論―社会学的・心理学的研究』の特徴を述べる。
　ジンメルは『社会』..]]></description>

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			<title><![CDATA[NEET急増問題について〜かかわりをもつ力〜]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3629/]]></link>
			<author><![CDATA[ by nobufuta]]></author>
			<category><![CDATA[nobufutaの資料]]></category>
			<pubDate>Sun, 04 Dec 2005 19:22:45 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983432065701@hc05/3629/" target="_blank"><img src="/docs/983432065701@hc05/3629/thmb.jpg?s=s&r=1133691765&t=n" border="0"></a><br /><br />　「ニート急増」という問題について、国は、「３ヶ月の合宿を通して、コミュニケーション能力の強化、ビジネスマナーの獲得をして、就職に有利な人間作りをする」という対策を考えているという（「東奥日報」　出典：文末）。この対策を知ったとき、私は、コ[360]<br />「ニート急増」という問題について
　「かかわりをもつ力」
「ニート急増」という問題について、国は、「３ヶ月の合宿を通して、コミュニケーション能力の強化、ビジネスマナーの獲得をして、就職に有利な人間作りをする」という対策を考えているという（「東奥日報」　出典：文末）。この対策を知ったとき、私は、コミュニケーション能力とはなんだろう、と思ってしまった。またそれ以上に、ニートが身につけなければならないとされるのは、就職に有利な人間となることなのだろうか、と感じた。確かに、職にも就かず、学生でもなく、職業訓練もしていない人は社会的に有利な立場にあるとは言いがたい。しかし、それでもなんとか暮らせてしまっているのが、今の日本社会なのである。そう考えると、働こうとしない、あるいは働く必要を感じない人々に、働く際に有利な技術を提供しても、根本的な解決にはならないのではないか、と私は考える。
　ニートが増えている、という実態について考える際、コミュニケーションに着目することは、とても大切だと思う。しかし、そのコミュニケーションは、果たして「能力」という概念でくくられてしまってよいのだろうか。能力というと..]]></description>

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			<title><![CDATA[社会学史]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709101@hc05/3519/]]></link>
			<author><![CDATA[ by よよよ]]></author>
			<category><![CDATA[よよよの資料]]></category>
			<pubDate>Thu, 01 Dec 2005 18:19:58 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709101@hc05/3519/" target="_blank"><img src="/docs/983431709101@hc05/3519/thmb.jpg?s=s&r=1133428798&t=n" border="0"></a><br /><br />　私が関心を持った社会学者としてジンメルをあげたい。ジンメルが説いた学説は形式社会学というものである。これは、これまでの社会学の考え方を否定するものだった。それまでの考えというのは主にコントが掲げたもので、総合社会学といわれている。つまり、[360]<br />関心を持った社会学者を1名取り上げ、学説の時代背景、取り組んだ問題、鍵概念、社会学史の流れの中での位置などに注意しながら、論じよ。
私が関心を持った社会学者としてジンメルをあげたい。ジンメルが説いた学説は形式社会学というものである。これは、これまでの社会学の考え方を否定するものだった。それまでの考えというのは主にコントが掲げたもので、総合社会学といわれている。つまり、社会学とは社会全体をその歴史的な変化をもふくめて全体的に認識しようとする科学であるとする考え方である。しかし、このすべての学問を包み込もうとする考え方は逆に独自性がない受け売りの学問であるとして批判された。
　ジンメルを後押ししたのは変化に富んだ１９世紀という風潮であるかもしれない。というのも、１９世紀はいわゆる「市民社会的なもの」に対する批判、さらにはその克服が模索された時代であり、そのなかで社会学は成立し、展開されたからである。資本主義社会が発展していくにつれて、学問も専門的にならざるを得なくなり、そのような状況において、すべての学問を包み込んで、全体的に理解しようという総合社会学は批判の的になったのである。
　このよ..]]></description>

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			<title><![CDATA[なぜ服にこだわるのか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709101@hc05/3056/]]></link>
			<author><![CDATA[ by よよよ]]></author>
			<category><![CDATA[よよよの資料]]></category>
			<pubDate>Fri, 11 Nov 2005 01:05:09 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983431709101@hc05/3056/" target="_blank"><img src="/docs/983431709101@hc05/3056/thmb.jpg?s=s&r=1131638709&t=n" border="0"></a><br /><br />　私は衣服に対していわゆるコンプレックスがある。今自分が身に着けている衣服に対して、人はどのような判断を下しているのかということが大変気になるのである。もしくは、人がどのような服を着ているのかということについても興味が尽きない。洋服は何を基[360]<br />『なぜ服にこだわるのか』
　私は衣服に対していわゆるコンプレックスがある。今自分が身に着けている衣服に対して、人はどのような判断を下しているのかということが大変気になるのである。もしくは、人がどのような服を着ているのかということについても興味が尽きない。洋服は何を基準に購入するのか。流行とは何か。昨年はダサいと思われていたものがどうして今年はカッコよいものとして取り上げられるのか。例えば、今年男性の間で流行したネルシャツは、私が小学校6年生のときに流行したものだ。中学校2年生までそれを着ていたら流行おくれだと馬鹿にされた覚えがある。そのように、流行は手を変え品を変え変動していき、たまに追うことが馬鹿らしく思うこともある。それなのに、我々はどうして程度の差はあれど、流行を受け入れるのか。どうして朝学校に行くときにあれこれとどの洋服を着ていこうかと悩むのか。堂々と自分が本当に好きなものを着ることにどうしてそんなに勇気がいるのか。流行の洋服店に行くためにはその洋服店に入るための相応の洋服を買ってきていかなければならない気がしてならない。ここまでくると洋服ノイローゼといってもいいかもしれない。..]]></description>

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