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		<title>タグ“インターアクション”の公開資料</title>
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		<description>タグ“インターアクション”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[「場面」と「社会」の関係について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/184/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 01:24:19 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/184/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/184/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/184/thmb.jpg?s=s&r=1116606259&t=n" border="0"></a><br /><br />私は、「場面」と「社会」の関係について、考えてみようと思う。というのも、これらはインターアクションを行うに際して、もっとも根本的なものだからである。
まずは、「場面」と「社会」のそれぞれの内容を考えた上で、結論として「場面」と「社会」の両[356]<br />私は、「場面」と「社会」の関係について、考えてみようと思う。というのも、これらはイン
ターアクションを行うに際して、もっとも根本的なものだからである。 
まずは、「場面」と「社会」のそれぞれの内容を考えた上で、結論として「場面」と「社会」
の両者の関係について考えてみたい。 
①「場面」について 
「場面」の定義は一般的な辞書をひくと、「ある事が行われているその場のようす。また、そ
の場所。」とある。この説明によれば、場面とは空間的なものであるが、決してそれだけにとど
まらないものであると考える。 
私は、主観的なフィルターを通して、個人の「場面」が決定されるのではないかなと思った。 
例えば「ある教室のある先生のある授業を受けている」というとき、自分は面白いと思ってい
ても、つまらないという人もいる。でも、自分はその「場面」を面白いと思っている。そして、
自分と同じようにその授業が面白いと思っている人（「場面」が同じ人）とは話が合うし、逆に
つまらない人には何を言っても、その授業のことに対して共感はできないのではないだろうか。 
ただし、その授業が面白いと思っている人が１００人いたと..]]></description>

		</item>
		<item>
			<title><![CDATA[日本語は本当にあいまいか]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/183/]]></link>
			<author><![CDATA[ by luckchan]]></author>
			<category><![CDATA[luckchanの資料]]></category>
			<pubDate>Sat, 21 May 2005 01:21:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/183/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/luckchan/183/" target="_blank"><img src="/docs/luckchan/183/thmb.jpg?s=s&r=1116606111&t=n" border="0"></a><br /><br />例えば、ある人の所業を見て、「普通の人ならばこんなことはしない」と言った人がいるとしよう。この場合、その人が考えている「普通」というのは、そう言われた相手にとっては「普通ではない」かも知れないのである。この「普通」という日本語のあいまいさか[360]<br />「日本語は本当にあいまいか」 
(1)私はこの講義の春学期を履修しており、その時に提出したレポートは「社会」や「場面」
という概念的なものに拘ってしまったという反省があった。そこで、今回は「日本語」、と
りわけ「普段日常的に使われている日本語」をもっと考えてみようと思った。 
(2)具体的には、「日本語はあいまいである」という仮説を立て、その仮説が果たして正しい
かどうか、あるいはどこまで正しいかということについて、インターアクションを通じて
考えていきたいと思った。なぜなら、私は春学期の講義を通じて、「自分の考えていること
を相手に対して丁寧に伝えようとする意思と努力」の必要性を強く感じたのであるが、さ
らに、日本語は自分の考えていることを相手に対して丁寧に伝えるという意思と努力がよ
り一層必要なのではないかと思ったからである。 
例えば、ある人の所業を見て、「普通の人ならばこんなことはしない」と言った人がいる
としよう。この場合、その人が考えている「普通」というのは、そう言われた相手にとっ
ては「普通ではない」かも知れないのである。この「普通」という日本語のあいまいさか
ら故に生ま..]]></description>

		</item>

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