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		<title>タグ“イエス・キリスト”の公開資料</title>
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		<description>タグ“イエス・キリスト”の公開資料</description>
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			<title><![CDATA[使徒信条における信仰告白「我らの救い主イエス・キリストを信ず」]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11496/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 14 Nov 2006 23:19:01 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/11496/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/11496/thmb.jpg?s=s&r=1163513941&t=n" border="0"></a><br /><br />使徒信条における信仰告白「我らの救い主イエス・キリストを信ず」についての一考察
　使徒信条における、この「我らの救い主」という信仰告白は弟子たちのイエスの復活体験に最も密接に結びついている。（Ⅰコリ12：3.etc）イエスはキリストであっ[342]<br />使徒信条における信仰告白「我らの救い主イエス・キリストを信ず」についての一考察
　使徒信条における、この「我らの救い主」という信仰告白は弟子たちのイエスの復活体験に最も密接に結びついている。（Ⅰコリ12：3.etc）イエスはキリストであったという告白よりむしろ、イエスは主であるというこの確信はユダヤの人々の集団と初期キリスト者とを決定的に二分した。彼らは、見捨てられたメシア、呪われた犯罪者であるイエスに、ユダヤ教においてただイスラエルの神のためだけに、とってあった御名を適用した。復活との関連で詩篇110：1の頻繁に用いることは、イエスが神の存在と支配と共にあるところへ入っていくことによって高められることとしての復活の理解を示している。「主は私の主に言った。&ldquo;わたしがあなたの敵をあなたの足の足踏む台とするまで、わたしの右側に座りなさい。&rdquo;主という敬称と聖なるせいについての言語の密接な関係は、高められた方が弟子たちの間で力強く存在しているという確信を指し示している：「霊において語る時、誰もイエスは呪われよと言わないし、聖なる霊のよってでなければ、だれもイエスは主であるとは言わない。」
　こ..]]></description>

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			<title><![CDATA[ J・G・デーヴィス『現代における宣教と礼拝』ブックレポート]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/9548/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Tue, 11 Jul 2006 22:08:11 +0900</pubDate>
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			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/9548/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/9548/thmb.jpg?s=s&r=1152623291&t=n" border="0"></a><br /><br />　バプテスマを宣教の根拠として論じている本書は、典礼論というよりも、むしろ宣教論がそこで展開されている。そして特に印象深かったことは、デーヴィスが「聖化」について、バプテスマをその基礎に置く宣教という概念を含むものとして論じていることである[360]<br />J・G・デーヴィス『現代における宣教と礼拝』ブックレポート
　バプテスマを宣教の根拠として論じている本書は、典礼論というよりも、むしろ宣教論がそこで展開されている。そして特に印象深かったことは、デーヴィスが「聖化」について、バプテスマをその基礎に置く宣教という概念を含むものとして論じていることである。
それも、初期キリスト教会以来、保持してきた本来的な意味での「聖化」として。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにしては誰も主を見ることが出来ないからである（ヘブライ人への手紙12：14）」。それは「普遍的な平和と愛を追い求めること」を前提条件として、「たんなる倫理的なるものを越えた内容を持つもの」である。それと同時に、「主を見る」という救いのための宣教的概念を示している。
　そのように「バプテスマと聖化と宣教は、一つの全体的現実の三つの側面である」という包括的な理解は、「聖化」だけではなく、「バプテスマ」と「宣教」に関しても、狭い個人的な領域へと、その意味を歪曲してしまうことを防いでくれる。もしそのような理解を怠れば、個人的な「聖」――「教会が日常的な..]]></description>

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			<title><![CDATA[ カール・バルトとモルトマンの三位一体論について]]></title>
			<link><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/8765/]]></link>
			<author><![CDATA[ by revelation]]></author>
			<category><![CDATA[revelationの資料]]></category>
			<pubDate>Mon, 05 Jun 2006 15:24:51 +0900</pubDate>
			<guid><![CDATA[https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/8765/]]></guid>
			<description><![CDATA[<a href="https://www.happycampus.co.jp/docs/983430304901@hc06/8765/" target="_blank"><img src="/docs/983430304901@hc06/8765/thmb.jpg?s=s&r=1149488691&t=n" border="0"></a><br /><br />今日の私たちが聖書の中に見出すことのできる三位一体論の解釈に通じる箇所は、主要なものとして二つある。マタイ28：19「彼らに父と子と聖霊の名によって」と?コリント13：14においてである。しかしこれらの成句が三位一体の教理を産み出したのでは[342]<br />カール・バルトとモルトマンの三位一体論について　　　　　　　　　　　　　　　　
序
今日の私たちが聖書の中に見出すことのできる三位一体論の解釈に通じる箇所は、主要なものとして二つある。マタイ28：19「彼らに父と子と聖霊の名によって」とⅡコリント13：14においてである。しかしこれらの成句が三位一体の教理を産み出したのではない。
ではいかにして私たちは三位一体の神を知ることが出来るのであろうか。「イエスは主なり」という根本的信仰告白 から出発するカール・バルトと「復活したキリストは十字架に付けられたイエスである」という根本的信仰告白から三位一体論を展開するユルゲン・モルトマンの二人の命題を概観し、三位一体論を考察する。
バルトの三位一体論
「神は主として御自身を啓示するということ・・・したがって、聖書を通して証言されていることを、われわれは『三位一体の根』と呼ぶ」 。
バルトは三位一体論の根拠を聖書的証言へと根拠付けるが、それは「神の言葉」としての聖書である。「聖書がまことに（wirklich）啓示について証しする〔時、その〕ことによって、聖書のことばは神の言葉である。」 聖書的証言は..]]></description>

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