連関資料 :: 国際関係

資料:42件

  • 国際関係論 国際協力の枠組みと国際関係
  • 国際協力の枠組みはグローバリゼーション、ローカリゼーションの普及により変化している。この変化が国際社会にどのような影響を与えるか、逆に国際関係の変化が国際協力の枠組みにどのような影響を与えるかの視点から論じる。  まずグローバリゼーションの意味であるが、これまでの国家や地域などの境界を越えて地球規模で複数の社会とその構成要素の間での結びつきが強くなることに伴う社会における変化やその過程をいう。これは1970年代から広く使われるようになった。そこから、今日では「運輸と通信技術の爆発的な発展や冷戦崩壊後の自由貿易圏の拡大によって、文化と経済の国境にとらわれない貿易が促進すること」をも指すようになった。日本語では「地球規模化」とも訳されている。  次にローカリゼーションの定義であるが、ローカルとは、「ある空間的に限定された広がりの中にある区分」を指す。平たくいえば、一地方特有の、局部的な、あるいは地元の、という意味合いである。これは必ずしもルーラルと同一ではない。  ローカルの動詞形であるローカライズは「特定の場所に課す、特定の場所に特色を与える、(権限などを)地方に分散する」を意味する。
  • 環境 日本 経済 社会 国際 地域 問題 分析 課題 自立
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 国際関係論 地球規模問題と国際関係
  • 地球規模問題が国際関係に与える影響、国際関係が地球規模問題についてどのように対応するかなどの視点から考える。  途上国の貧困の削減は、人道的な見地から戦後の開発援助のおもな目的となってきたが、近年、先進国が途上国の貧困削減に取り組むことについてのより確かな根拠として、貧困問題を地球規模の課題として位置づける議論が活発である。地球規模の課題とは、その問題を放置すれば世界全体に影響が及ぶ恐れがあるため、国際的な協力体制のもとで対策に当たる必要がある問題である。代表的なものとして、地球温暖化などの環境問題、人口爆発、紛争・難民、エイズをはじめとする新たな感染症などが挙げられる。地球上に住むかぎり、だれしも地球温暖化の影響から逃れることはできない。人口が爆発的に増加すれば自然資源の過剰消費などをもたらし、紛争・難民は世界の安定と秩序を乱す。感染症が世界中で蔓延すれば、その進入を水際で食い止めることも容易ではない。途上国の貧困問題は、じつはこれらの問題と相互に密接に結びついているため、貧困削減は単に人道的な見地からだけではなく、地球規模の問題として国際的に取り組まなければならない。  以上のよ
  • 国際 問題 エイズ ボランティア 国際関係 地球 若者 地球温暖化 課題 労働
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 国際関係概論
  • まず、第一に、「北朝鮮の核・ミサイル問題のことを考えると、日本もこれに対抗できるような軍事的抑止力を充実させることが必要である。日本だけで無理ならば、日米共同で取り組んでいけばよい。」という意見についてであるが、これは日朝共に「国家の生存の確保」が最も重要な国益であり、国益の追求のために国力を行使するが、国力の中で最も重要なのが軍事力であるとする「伝統的なリアリズム」の考え方に基づいている。歴史的に見れば、このようなリアリズムの考え方にもとづき、19世紀から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ諸国は「富国強兵」「殖産興業」の政策をとり、互いに戦争をおこなってきた。核兵器が開発され、もしも核戦争が勃発すれば両国の生存が危ぶまれるような被害が必至である現代において、先の例のように日朝間で戦争がおこり、核兵器が使用される可能性は低いであろうが、「戦争が起こらない」ということと「国交を正常化する」ということはもちろん全く異なることであり、日本が軍事力をもってして北朝鮮を牽制すれば互いに武器を作りあい、牽制しあうという冷戦の再現になってしまい、問題解決には至らない。
  • レポート 国際関係学 北朝鮮 機能主義 リアリズム アジア外交
  • 550 販売中 2006/11/07
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  • 国際関係
  • 「世界がもし100人の村だったら」の感想文 この「世界がもし100人の村」を読んで感じたことは、日本人がいかに恵まれているということがわかる。日本は比較的に平和で戦争や内戦がなく、とても過ごしやすい国だ。だが、この本で登場している村では、100人のうち20人も空爆や襲撃、地雷による殺戮などにおびえている。世界の人口の5分の1の人がこのような状況に置かれているとは日本で普通に生活していてはなかなかわからない。  この前半部分では人々の間の差異や文化の違いを述べている。  後半部分では、経済格差、教育格差、思想・信仰・表現の自由、戦争と平和・安全、人口増加などについて書いている。最後のほうでは、恵
  • 世界がもし100人の村の感想
  • 550 販売中 2007/12/24
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  • 国際関係の行方
  • 1) 国際関係をめぐる認識や学問状況は、この20世紀に、どのように変化したか  当初の国際関係をめぐる認識や学問状況は、第一次世界大戦という悲惨な経験によって、平和を求める学問としての目的論的な志向をもっており、平和が国家間の法的関係の改善によって実現されるというような理想主義に支えられていた。しかし、ファシズム諸国の侵略により国家間は無法状態に陥り理想主義は崩壊した。それに代わってこの国際政治の現実を直視しようとする現実主義が台頭してきたのである。国際政治が力をめぐる闘争であるという認識のもと、ナショナリズムや帝国主義、国際政治における力の分析が高まってきたのだった。つまり、単に「あるべき」国際政治を追求する理想主義の裏返しとして、現実主義の傾向が強まってきたのである。しかし、このような現実主義は主権国家を前提とした見方であったため国際政治の変容についていけず、よって国際政治の将来に対する予測を可能にしようとする理論的傾向が現れるようになる。それが、行動科学的方法のよる「いかに動くか」を探求するといったものであった。そして現在、この行動科学的方法が基礎となった平和研究が有力となってきており、戦争と平和の諸問題を科学的な視点から明らかにしていこうとする動きが見られるのである。 2)第一次世界大戦は、それまでの国際関係のあり方に、大きな変化をもたらした。?西欧で展開されてきた「それまでの国際関係のあり方」について説明?変化の内容を論じる。  第一次世界大戦以前、三十年戦争終結後にできた西欧国際体制が西欧の国際関係のあり方であった。この西欧国際体制は、国家主権の概念と国際法の原則、勢力均衡の政治といった三つを基盤としていた。主権国家同士が競う中で利害の対立が生じ、戦争という事態がもったらされたことによって国家間の法の必要性が人々に浸透していった。
  • レポート 国際関係学 国際関係 帝国主義 南北問題
  • 550 販売中 2006/01/07
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  • 国際関係
  • 1、 はじめに  第一次世界大戦の直接的な原因は1914年の7月危機にあるとされる。発端となったのは、1914年6月28日に起こった、セルビア人とクロアティア人の民族主義集団によるオーストリア・ハンガリー国の王位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺である。かつてのトルコ領土ボスニアの首都サラエボは、1878年以来オーストリア・ハンガリー国によって管理され1908年に併合されていた。よってスラブ人によるオーストリア・ハンガリー国に対する国民的反感は強く、国王、大統領、指導的政治家などの暗殺事件は珍しくなかった。またこの暗殺事件より約1ヶ月たってからオーストリアからセルビアの方に最後通牒が送られた。このことからもオーストリアのこの暗殺事件に激怒して第一次世界大戦に踏み切ったとは考えにくい。  この7月危機がどのようにして戦争まで発展してしまったのか、各国の思惑もみながら考えていきたい。その際同盟関係が第一次大戦を引き起こしたということも念頭に置き、同盟関係にも注意を払い、それがどのように戦争に関与したかみていくことにする。 2、オーストリアにとってチャンスであったサラエボ事件  ハプスブルク王朝国家が続くかどうかは従属諸民族問題の解決が必須であった。セルビアは1930年来、過激民族主義波の一将校団の支持を背景に、新しい王朝が支配権を握っていたが、彼らはセルビアの国境を広げて外国の支配下に従属しているセルビア系住民を糾合しようと決意していた。
  • レポート 政治学 第一次世界大戦 戦争 国際
  • 550 販売中 2006/07/04
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  • 国際関係学レポート
  • 国際関係学 レポート 吉田 茂-尊皇の政治家- 第1章 人生草創-維新の激流に生る- 明治11(1878)年9月22日に吉田茂は生を受けた。その年は西南戦争終結1周年であった。前年(明治10年)2月から7ヶ月にわたって世上を漬乱し、維新政権を震撼させたあの西南戦争は、西郷隆盛の自刃をもって終わった。その4年前の明治6年、参議西郷隆盛らの征韓論が、欧米訪問から帰国したばかりの岩倉具視(右大臣)、大久保利通(参議)らの猛反対に遭って敗北、これを機に西郷はじめ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平ら政府中枢の人びとが下野した。この政権分裂の一大事こそ、まさに西南戦争に連なる歴史のひとこまとなるのである。                  吉田茂が現し世に生まれ落ちたその日は、新生日本がまさに西南戦争の余燼にまみれつつ国家と天皇の守護を旧特権階級の武士層にではなく、農工商を含む「天下万民」に託そうとしたその秋でもあった。国家近代化の波に洗われて急速に没落していく旧武士層の経済的窮状はもの哀しくもあった。士族が妻子を飢えさずに生計を立てる道があるとすれば、彼らの軽蔑する商人、工人、農民になるほかはなかった。  吉田茂は、竹内綱を父とし瀧子を母とする7男7女の5男として東京に産している。茂が竹内姓から吉田に改姓されたのは、茂が生まれて間もなく綱の親友吉田健三の養子として転籍したからである。つまり吉田茂にはそもそも2人の父親がいたことになる。いや、後年茂の岳父となる牧野伸顕を加えれば、吉田の父は3人を数えることになる。しかも、これら3人の父親が吉田の人生に落としたその影は、長くそして濃密である。実父竹内綱が吉田にその血脈と天賦の資質を与えたとすれば、養父吉田健三は茂に訓育と莫大な資産を給した。そして、明治の元勲大久保利通の次男すなわち牧野伸顕は、女婿吉田茂にいわば栄達の閨閥と権力の強縁を供した。  竹内13代目の当主竹内綱は、土佐藩重臣伊賀家の家臣であった。綱は伊賀家歩兵の伍長から始まって弱冠20歳で重役になり、文久2年、23歳で目付役を命ぜられている。版籍奉還(明治2年)とそれに続く廃藩置県(明治4年)を経て明治国家体制はいよいよその起点を固めていくが、それとともに竹内の活躍舞台が大きく広がったことは事実である。とくに実業家としての彼の行動は際立っている。後藤象二郎主宰の蓬莱社から高島炭坑(長崎県)の経営を任されたのが明治7年、竹内の事業欲は何も炭坑開発に限られてはいなかった。鉄道経営には彼のビジネスの最たるものであったといってよい。明治27年、竹内は朝鮮視察後、尾崎三郎らとともに政府に対して京釜・京仁の2つの鉄道敷設計画を提議している。ここで重要なのは竹内のこうした実業家としての行動が、実は彼の政治的な行動と蜜に絡んでいたということである。例えば前記京釜鉄道の経営権を竹内が得ることについては、彼らなりの国家的使命感とともに、利権にかかわる種々の政治的配慮が蠢いていたといってよい。竹内のこうした政商的な顔は、彼のすべてを語っているわけではない。実業家竹内のキャリアは、彼のいま1つの顔、すなわち国家揺藍期にあって「国のかたち」を追い求める政治家竹内綱の面目と重ねてみる必要がある。竹内が江戸最末期の若い頃から国の行く末を案じ、政治に並々ならぬ関心を抱いていたことは間違いない。彼は攘夷論渦巻く文久3年、24歳のときに高知で後藤象二郎と初対面し、たちまち彼とは心腹の友となる。両人が攘夷反対、朝廷・幕府間の「調和」、国内物産開発と貿易振興、ボルネオ・スマトラなど南洋未開地への
  • 国際関係学 吉田 茂-尊皇の政治家-の要約
  • 1,650 販売中 2007/12/12
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