長崎の平和教育の現状

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    資料紹介

     長崎は行政の圧力によって被爆地としての地域性を無視された平和教育が進められてきた。違うのは、市も県と同様の立場ということである。しかし市長の影響もあり、平和教育の考え方も少しずつ変わってきているようである。
     長崎県被爆教師の会が結成されたのは1970年である。8月9日を「原爆の日」として原爆教育に取り組み、数々の書籍を出版した。その中でも1972年に刊行した全4冊からなる『ナガサキ原爆読本』は、平和教育の資料が乏しかった当時の教師たちにとって基調な教材となり、全国各地に浸透していった。
     しかし、1977年5月、長崎市内の小学校で校長が150冊の『原爆読本』を図書室から無断で校長室に持ち去るという事件が起こった。これに対し県教組などは「平和教育への弾圧」、「現代版の焚書」と一斉に反発、平和教育論争が巻き起こった。これがいわゆる「『原爆読本』隠し事件」である。市教委がその反省を見せたのは21年後の1998年であった。
    この事件をきっかけに、長崎市教育長は『教育問題研究委員会』を設置し、平和に関する教育の基本原則を諮問した。同委員会は翌1978年2月、「平和に関する基本三原則」を答申し、これを受けて長崎市教育委員会は『平和に関する指導資料(試案)』を作成し、1978年度より実施した。
     その内容は、被爆教師の会や教職員組合が強く求めていた「ヒロシマ・ナガサキを原点とする」という点、そして特設時間を設けて平和教育を実施することを、はっきりと否定するものであった。

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    長崎の平和教育の現状
     長崎は行政の圧力によって被爆地としての地域性を無視された平和教育が進められてきた。違うのは、市も県と同様の立場ということである。しかし市長の影響もあり、平和教育の考え方も少しずつ変わってきているようである。
     長崎県被爆教師の会が結成されたのは1970年である。8月9日を「原爆の日」として原爆教育に取り組み、数々の書籍を出版した。その中でも1972年に刊行した全4冊からなる『ナガサキ原爆読本』は、平和教育の資料が乏しかった当時の教師たちにとって基調な教材となり、全国各地に浸透していった。
     しかし、1977年5月、長崎市内の小学校で校長が150冊の『原爆読本』を図書室から無断で校長室に持ち去るという事件が起こった。これに対し県教組などは「平和教育への弾圧」、「現代版の焚書」と一斉に反発、平和教育論争が巻き起こった。これがいわゆる「『原爆読本』隠し事件」である。市教委がその反省を見せたのは21年後の1998年であった。
    この事件をきっかけに、長崎市教育長は『教育問題研究委員会』を設置し、平和に関する教育の基本原則を諮問した。同委員会は翌1978年2月、「平和に関す...

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