連関資料 :: 倫理学

資料:97件

  • 倫理
  • 課題?  恋と友情は、共に非常に利己主義的である。  この二つの似ている箇所としてまず、恋愛でも友情でも、共通している要素が三つある。一つ目は動物的な決定要素があるということ、つまり相手のルックスや生活スタイル、息遣いなどすべてをまとめて、見た瞬間、本能的な部分で「自分はこの人と合うか合わないか」ということを決める。  二つ目は、恋愛も友情も自分の努力の量に比例しているということ。自分がある人間に対して努力すると、それに見合うだけの感情が出てくる。どちらにおいても手間ヒマはかかるが、損をしたくはない。ある程度の関与をしないと成立することはないのである。  三つ目の要素は、「メリットがあるかどうか」ということである。しかしこの要素は、両者に共通すると同時に、決定的な違いでもある。同じ「メリット」でも、自分の人間としての種の生き残りにメリットがあるのが恋愛で、自分の個人的な生き残りにメリットがあるのが友情である。つまり、子孫を作って生活していく上で成功するかどうかというような本能的な感情が恋愛感情で、困ったときに助けてくれるなど、個人の存続にメリットがある場合が友情である。  そして、全く独自の見解ではあるが、恋と友情の間には、決定的な「欲求」の違いがあると思われる。これは、両者の欲求の程度が違うのではなく、それが向けられる対象が違うのである。友情は相手の「心」が欲しいのに対し、恋はその対象が「肉体」にも向けられる。「私」が好意を寄せる相手の肉体が、他者の方向を向いて、例えば話をしているとき、「私」は嫉妬をする。しかし、この相手は、肉体が他者の方向を向いているだけであって、果たして心が他者に向いているかどうかは推測し難い。つまり、「私」は相手の「肉体」が欲しいのである。
  • レポート エロス 倫理 恋と友情
  • 550 販売中 2006/02/09
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  • 倫理通論
  • まず、日本人は資格の違いに関係なく、ある枠によって集団が作られている場を大切に考えるといわれる。ここでいう場とは、具体的に言うと、その個人の住む地域や所属機関などを表している。日本人は、自己紹介するときに、「私は大学に通っています。」とか「私は○○会社のものです。」というように行なうことが多い。このことは、その個人が持つ資格自体を軽視して、その個人の場に重点を置いていると考えられる。この場の中での関係を見てみると、そこにはタテ社会と呼ばれるものがある。これは、同一集団内の同一資格を持つものでも、何らかの方法で差が設定され、強調されることで、精密な序列ができた結果である。
  • レポート 心理学 タテ社会 終身雇用 序列 集団 倫理 倫理学 個人 組織 組織行動
  • 550 販売中 2006/06/21
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  • 倫理概論 実存主義とカント主義とプラグマティズムの倫理について
  • 実存主義とカント主義とプラグマティズムの倫理学について説明する。  まず、実存主義であるが、実存主義にとって重要なことは、世界や人間をいかに解釈するかということではなくて、今ここにいる現実の存在たる私が、いかに生きるかが問題なのであり、主体的に生きぬくことを離れて思索ということは無意味であるという。したがって、このような主体的、実践的な立場にとって、自由の概念は、その思想の中心的意義をもつ概念と考えられるのである。  実存主義に属する思想家の一人ヤスパースの考えによると、哲学の根本性格は、「挫折を通じて超越すること」にある。つまり、対象的にせよ主体的にせよ、われわれの思索は、必ず、何らかの限界にぶつかって難破してしまう。しかし、この難破を通じて、実は、より広い深い地平が開かれてくるのである。そして、このような挫折を通じての超越は、言葉を換えて言えば、主体的な思索であり、実存的自由であるともいえる。  次にカント主義であるが、カントは真に道徳的と呼ばれるべき命法は、当然、定言命法でなければならないとした。それは、端的に「正直であれ」という無条件の方式をとるものである。  第1の定言命法
  • 倫理 戦争 哲学 道徳 思想 人間 自由 経験
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 倫理 キルケゴールに対する論述
  • 1.キルケゴールの倫理思想と、その意味 ゼーレン・キルケゴールの基本的学説は、道徳には本物の客観的基準はないということ、そしてむしろ、客観的基準があると主張される学説はわれわれの道徳の基準が選択された学説であり、選択されるのみであるという事実を隠蔽する装置の役割をしている、と訴える。あるいは個人を彼の道徳的諸戒律をカントが定義した個人よりもはるかに強い意味で自分に言い聞かせるものである。「真理は主体性である。」キルケゴールはこう命題を定めることで彼の哲学的研究領域を定めたのである。それ故に、彼の全著書は価値判断と劇場、不安と絶望、恐れに懐疑、信仰、希望、そして愛の状態にある人間の精神の主体的な海図を作り上げている。また、キルケゴールは過激なプトテスタント・キリスト教を採用しており、著書の目的がそこからもうかがい知れる。というのも、キルケゴールは彼自身が「私に似通っている唯一の人はソクラテスである。私の任務はソクラテス的任務であって、キリスト者であるとは何を意味するかの概念を訂正することである。私は理想を自由に保ちつづけているので、私自身をキリスト者とは呼ばないが、しかし私は、他の人々が私よりもなおのこと、その名にふさわしくないということを明らかにすることができる。」と明言しており、多くのキリスト教的思想家や牧師と多くのキリスト教教師の只中で人がキリスト者とならねばならない状況がキリスト教世界に存在する場合に、キリスト者となるということの問題をその相対的な理念としていた。この時代、一般的な精神は詩的・瞑想的な文化・汎神論だった。キルケゴールはこれを悪癖と捉え、その原因が客観的認識の非常な増大と、当時の一般の支配的哲学であったドイツの歴史哲学者ヘーゲルの思弁的体系に由来するものであると主張した。世界史的な新時代を画したヘーゲルの哲学によって、キリスト教はいずれ超越されるであろう凡庸なもの、人生のわずかな感銘さえも与えることのできない教理と機械的暗唱との客観的体系に変えられてしまったというのであ
  • レポート 哲学 倫理 人間論 キルケゴール 絶望
  • 550 販売中 2005/09/28
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  • 倫理演習レポート
  • 著者・相良氏自身がまえがきにおいて語るように、「日本人の心」は日常生活の中では全くと言ってよいほど意識の及ばない場所である。日本人をひとくくりにして、その心とはこういうものであると定義することは不可能なので、日本人の精神傾向について書かれた著作と見るのが妥当であろう。だが、それにも関わらず、この「日本人の心」という題名は強く日本人を惹き付けるのである。日本人とはいかなるものかという傾向を知ることによって、自らの生きる方向を探ろうとする気持ちが私たちの中に渦巻いているからではないだろうか。日本人として生きるためには、日本の習慣、儀礼など様々なものを自然に受け入れる必要性がある。「郷に入れば郷に従え」である。そのようなある種の制約の中で、日本人が追求しつづけたものは何か。守り続けてきたものは何か。三章では日本人は心情の純粋性・無私性を追求してきて、それが日本的な倫理の基本的な性格であると述べられている。 相良氏は『誠実と日本人』という著作の中で、母子道連れ心中と安楽死に日本人の「他者に対する誠実の欠落」を見ている。授業の中でも幾度か取りあげられたテーマであるが、十分な思考が出来ないまま自分の結論を求めたために、宙ぶらりんな状態のまま放置してしまっていたのでもう一度じっくり考え直してみようと思った。母子道連れ心中は、現代でも頻繁に起こっている事件である。それをテレビのニュースなり、新聞なりで知ったとき、私が一番初めに考えることは、母親はどんなに大きな悩みを抱えていたのだろうか、と言うことである。そしてその悩みが自分に耐えられるものではないと判断すれば、心中は妥当な選択であったと考えるだろうし、理解に苦しむものならば、子どもを不憫に思うだろう。つまり第三者は「自らの考え」もしくは「自ら」に対してのみ誠実なのである。 さて母子道連れ心中における問題は、母親が子どもを他者と見るか、見ないか、ということである。つまり「他者に対する誠実」の有無である。ほとんど全ての母親は子どもを「かわいい」と感じる。そして、彼、彼女に対し誠実であろうとする。自分が相手に対し誠実であれば、相手にとって必ずや良い結果になると信じているからである。このような場合、その誠実な行為がアリガタ迷惑になるということは全く想定されていないことがしばしばである。誠実な行為がアリガタ迷惑になるということは、結果的にその決断が母親自身に対してのみ誠実であったということである。子どもに対して誠実であろうとしても、最終的にその決断は自己満足の域を脱することはできない。  相良氏は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』から日本人捕虜の誠実に関するエピソードを引いている。捕虜になった日本人はまず殺せというが、国際法上それはできないというと、やがて日本に対しての爆撃に協力し始めるというものである。相良氏はこの事例は「日本人の誠実には方向性がない」ということを示しているという。だがこれは誠実に方向性がある・ないの問題ではなくて、やはり個々が自身のなかで何に対して誠実であるかという問題である。この爆撃に協力した捕虜はアメリカ軍に対して誠実というより、自らの命に対して誠実であったといえよう。自らの信念に誠実なものであれば、最期まで「天皇万歳」と叫びながら自害するはずである。 誠実というのは古代においては清き明き心、更に正直を経て、近世の誠となった歴史を持っているが、現代における意味は「相手に一番良いように考え、行動すること」と考えて差し支えないと思う。誠実がこのような意味であるとすると、母親が子どもに対して誠実であろう
  • 《レポート》 相良亨「日本人の心」における武士道
  • 550 販売中 2007/12/07
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  • 倫理概説1
  • 私は、実践とは、目的を定め、目的へ到達する手段をいくつも考え、可能であるものを選択する、以上が本人の頭の中で計画したことであるが、これらの計画がうまくいく可能性はともあれ、現実化することが実践の意義であると考えた。アリストテレスのニコマコス倫理学を通して「実践の意義」を考察していきたいと思う。  アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で実践に関する一連の行動を「目的」「思量」「選択」の三段階に分けた。アリストテレスは、本人の望むことが善を意味するとしている。善き人にとっては真の意味における善が、悪しき人にとっては任意のものが願わしきものとなる。つまり、各人の状態によって「目的」が異なるのである。その「目的」へ達するための手段を状況に応じて考えることが「思量」である。アリストテレスは「我々が思量するのは、我々の力の範囲内に属し、我々のなしうるところの事柄に関してである」と述べている。つまり、自分自身が現実としてできること、常識的な範囲内の手段を考えることであるということであろう。そして、自分自身の出来る範囲の手段から願望を実現できる手段を「選択」するのである。  例えば、私は現在空腹であ
  • 倫理学 東洋大学 通信教育課程
  • 550 販売中 2008/03/17
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