連関資料 :: 日本の新聞

資料:5件

  • 日本の戦時中の新聞
  • 日本の戦時中の新聞 1. 満州事変前後の新聞の変化 1 満州事変前の新聞 1 政府の情報統制機関の設立 1 満州事変後の新聞 2 新聞統制 2 2. 太平洋戦争中の新聞報道 2 太平洋戦争の開戦 2 戦争中の新聞 2 戦況の悪化と新聞 3 英米に対する残虐な論評 3 3. 日本の終戦後の新聞と戦争責任 3 第二次世界大戦時中、過度な軍国主義を取っていた日本国家は言論統制を強め、多くの人たちが弾圧された。その中でも新聞は特に監視され、政府、軍部を批判する言動などがあった場合は言論統制機関による指導、給紙の停止、さらには排紙に追い込まれるという現状であった。また、戦争をたたえれば政府からの新聞用紙獲得に結びつき、商業的にも成功するという事情もあった。そして、日本の新聞は大本営からの情報の宣伝機関となってしまったのであった。ここでは、第二次世界大戦中の新聞報道について調べてみたい。 満州事変前後の新聞の変化 満州事変前の新聞  1937年の満州事変前までの新聞はそれ以降のような軍国主義・戦争賛歌を称えていたわけではなかった。この時期には、まだ言論の自由が厳しく統制されていたわけではなかったからである。特に朝日新聞ではリベラルな自由主義、軍備縮小を唱えていた。しかし、五・一五事件について厳しく軍部を批判した結果、軍部の弾圧にあい、朝日新聞は二・二六事件で襲撃を受けるまでにいたった。その結果、多くの新聞の立場は軍国主義的な主張に立場を強めていったのであった。 政府の情報統制機関の設立  1936年に設立された政府初の情報統制機関、情報委員会は1940年にさらに弾圧的な内閣情報局に発展した。この内閣情報局は企画調査、新聞・出版・放送の指導・取り締まり、対外宣伝、検閲、文化宣伝などを行う550人の巨大機関であった。  満州事変後の新聞  日中戦争へと発展した満州事変前後、政府は「尊厳ナル我国体ニ対スル観念ヲ徹底」させることを旨とする国民精神総動員運動を起こす同時に、主要な新聞社を集め、運動への協力を強く求めた。その結果、国民精神総動員中央連盟が設立され、朝日新聞社の緒方竹虎氏、毎日新聞社の高石真五郎氏、同盟通信社の古野伊之助氏が理事に就任した。この理由としては政府の弾圧を恐れたのと共に、ほとんど輸入に頼っていた新聞紙の原料の枯渇問題が深刻化し、政府に積極的に協力することによって、新聞用紙の獲得に有利になったという背景もあった。こうした状況で、朝日、毎日(東京日日)、読売などの新聞の報道は満州事変での関東軍を称え、中国の責任を訴えた。満州事変の1ヶ月後、毎日は「守れ満蒙、帝国の生命線」という特集を組み、満州の「特殊権益」が日本にとって当然のもの、満州での軍の活躍、鉱物資源の説明、さらに国際連盟との衝突で日本は「名誉の孤立」を取ったとし、「日本は満州の守護神」とまで言い放った。こうした事実関係を無視した一方的な報道はその後の関東軍の動きにも影響を与え、結果として日本の戦争賛歌を煽ることとなってしまった。その後、政府による更なる新聞統制によって日本の新聞はさらに偏りを増すこととなる。  新聞統制 1937年ごろから、報道機関が通俗的に傾いてしまうことを危惧した内閣情報部や軍は、報道機関の乱立を防ぐために、当時多種多様に全国各地にあった新聞社を、新聞紙法などによって統合、整理していった。統合は3段階を踏んで行われ、1938年は当時739紙もあった新聞が3年間で、108紙にまで減少し、敗戦時までには57紙に統合された。このため、各社は生き残りをかけ
  • レポート 史学 第二次世界大戦 戦時中の新聞 ジャーナリズム 言論統制
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  • 近代日本文学と新聞・雑誌
  • 近代日本文学と新聞・雑誌 (序) 江戸時代には、すでにメディアが成立していたと言われるが、厳密にいうと少々言い過ぎている。というのも、明治時代、文明開化にともない日本のメディアは大きな変化を遂げることになる。印刷技術や紙面の工夫もさることながら、文学作品を新聞・雑誌に取り入れることにより、受容の拡大はもとより大きな質的変化をもたらしたのである。即ち、この時期こそメディアが正式に確立した時期なのである。 新聞・雑誌に掲載された文学作品の出来次第でメディアが評価されることもあり、その影響力は果てしない。 本論では、近代日本文学と新聞・雑誌との関わりとその意味・位置を具体的な事例を取り上げて考察していくことにする。 第一章:メディアの中の文学 まずこの章では、明治時代の近代日本文学と関わりの深いメディアの起源と文学との出会い、成り立ちを解説することにする。メディアに関してはここでは特に、新聞・雑誌について述べることにする。 日本の新聞は江戸時代の幕末から発行されてはいたが、その影響は必ずしも一般的なものではなかった。というのも、明治初年の識字率は低く、また、書物とは異なる1日だけの使い捨てのメディアとして民衆の受け入れに時間がかかった。 しかしこれらの問題は、紙面にルビを振ることや、自らを【稗官小説】と規定し、当時 の庶民の身近にあった小説との類縁性で理解させることで少しづつ改善されることになる。 そして、そうした中で物語としての記事が現れた。当時の雑報から、露骨に犯人を批判する記者という主体が文章中にみられたのだ。人称を持たない語り手が、読者に同意を求めている。物語として雑報が読めるのである。これは民衆の娯楽の代わりになっていたのではないだろうか。 その後も、新聞紙条例の改定で一時期は物語的な記事の減少はあったものの、大衆読者の欲望を満たすべく徐々に回復をしていき、1876年3月3日に『仮名読新聞』が「大金を逃した小僧の急報」と見出しをつけて報道した雑報が芝居に仕組まれ、更に小説にまでなった。もちろん例はこれだけではないが、このように、新聞記事が物語、いわゆる小説に書き直されるという事態は、両者が切っても切れない近接した関係にあることを示している。 そして明治10年代になると、この物語的な雑報が「実録」という明治戯作の母体となった。これが雑報記事の連載という【続き物】に発展し、小説的な題名が付けられ、他の雑報と識別された。そうして、新聞小説というものが誕生することになる。 次に雑誌であるが、新聞よりもやや遅めの明治元年、『中外新聞』を作った柳川春三によって『西洋雑誌』が創刊された。これが本格的な日本の雑誌の起源といわれている。この頃はあまり新聞と雑誌の区別がなかったが、その後の新聞雑誌保護政策により数多くの雑誌が刊行されることになる。 結社をつくり、雑誌を発行するというメディア的実践は、単に自身の言説を公表する目的ではなく、同年代のさまざまな言説と一線を画して自分たちの言説の生産することを意 味する。福沢諭吉や森有礼ら明六社の『明六雑誌』が啓蒙作家たちによる解釈共同体を誇示し、演説会などを通してその共同体を拡大したことなどは、明治近代におけるその最良のモデルであった。  第二章:メディアと文学の関わり 以上ごく簡単ではあるがメディアの起源について説明した。ではこのメディアと文学小説はどのような関わりをもつのだろうか。メディアの中で生成された文学の受容が拡大され、飛躍的な展開を遂げることになったことを、具体例をあげて以下に示すこととする。 近代日本の文
  • レポート 日本文学 近代日本文学 明治 メディア 新聞 雑誌
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  • 【最新2019~2022年度】日本大学通信 新聞英語 合格レポート
  • 2019~2022年度 日大通信 新聞英語の合格レポートです。参考にしていただき、良いレポートが書けることをお祈りしております。 先生の訂正が入った部分を修正しております。記事の日本語の表現の仕方を指摘していただいております。 課題:  次の2問に指示されたとおりに答えなさい。 1  教材全体から2本の記事を選び,5Ws plus 1H(Who, What, Where, When, Why, How. 教材p.205参照)を示した上で,日本語で要約しなさい。(引用問題 にはページ数,英文の見出しとその和訳を書くこと。 ) 2  リポート執筆時より遡って1ヵ月以内の英字新聞の記事から1,000字程度の日 本語で和訳可能な記事を選び,その記事を切り抜いてリポート紙面上に貼り付け て,英文を和訳しなさい。(新聞記事のコピーでも可) 参考文献:「英字新聞がどんどん読めるようになる : 「見出し語法」で時間短縮、実力アップ!」 竹信悦夫、「2パラグラフで英字新聞を読もう!」2パラ編集部
  • 日本大学 日大 通信 新聞英語
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