津地鎮祭事件 最高裁

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    資料紹介

    主    文
         原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
         前項の部分につき、被上告人の控訴を棄却する。
         控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。
             
    理    由
     第一 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第一点について
     本件訴状の記載に徴すれば、本訴は上告人であるA個人を被告として提起されたものと認められるから、
    本訴が津市長を被告として提起されたことを前提とする所論は、その前提を欠き、失当である。論旨は、採用
    することができない。
     第二 同上告理由第一点の追加補充について
     本件記録に徴すれば、被上告人が本訴を提起するについて必要とされる監査請求を経ていることは、明ら
    かである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
     第三 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第二点及び同樋口恒通の上告理由第四点について
     公金の支出が違法となるのは単にその支出自体が憲法八九条に違反する場合だけではなく、その支出の
    原因となる行為が憲法二〇条三項に違反し許されない場合の支出もまた、違法となることが明らかである。
    所論は、本件公金の支出が憲法八九条に

    資料の原本内容





    原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
    前項の部分につき、被上告人の控訴を棄却する。
    控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。





    第一 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第一点について
    本件訴状の記載に徴すれば、本訴は上告人であるA個人を被告として提起されたものと認められるから、
    本訴が津市長を被告として提起されたことを前提とする所論は、その前提を欠き、失当である。論旨は、採用
    することができない。
    第二 同上告理由第一点の追加補充について
    本件記録に徴すれば、被上告人が本訴を提起するについて必要とされる監査請求を経ていることは、明ら
    かである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。
    第三 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第二点及び同樋口恒通の上告理由第四点について
    公金の支出が違法となるのは単にその支出自体が憲法八九条に違反する場合だけではなく、その支出の
    原因となる行為が憲法二〇条三項に違反し許されない場合の支出もまた、違法となることが明らかである。
    所論は、本件公金の支出が憲法八九条に違反する場合にのみ違法となることを前提とするものであつて、
    失当である。論旨は、採用することができない。
    第四 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第三点、上告代理人奥野健一、同田辺恒貞、同早瀬川武の上告
    理由第一点ないし第三点、上告代理人樋口恒通の上告理由第一点ないし第三点について
    一 本件の経過
    (一) 本件は、津市体育館の起工式(以下「本件起工式」という。)が、地方公共団体である津市の主催によ
    り、同市の職員が進行係となつて、昭和四〇年一月一四日、同市a町の建設現場において、宗教法人大市
    神社の宮司ら四名の神職主宰のもとに神式に則り挙行され、上告人が、同市市長として、その挙式費用金
    七六六三円(神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を市の公金から支出したことにつ
    き、その適法性が争われたものである。
    (二) 第一審は、本件起工式は、古来地鎮祭の名のもとに行われてきた儀式と同様のものであり、外見上
    神道の宗教的行事に属することは否定しえないが、その実態をみれば習俗的行事であつて、神道の布教、
    宣伝を目的とした宗教的活動ではないから、憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、本件起工式の
    挙式費用の支出も特定の宗教団体を援助する目的をもつてされたものとはいえず、特に神職に対する金四
    〇〇〇円の支出は単に役務に対する報酬の意味を有するにすぎないから、憲法八九条、地方自治法一三
    八条の二に違反するものではない、と判断した。
    これに対し、原審は、本件起工式は、単なる社会的儀礼ないし習俗的行事とみることはできず、神社神道
    固有の宗教儀式というべきところ、憲法は、完全な政教分離原則を採用して国家と宗教との明確な分離を意
    図し、国家の非宗教性を宣明したものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動とは、単に特定
    の宗教の布教、教化、宣伝等を目的とする積極的行為のみならず、同条二項の掲げる宗教上の行為、祝
    典、儀式又は行事を含む、およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅するものと解すべきであると
    し、本件起工式は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当し許されないものであり、したがつて、こ
    れがため上告人が市長としてした公金の支出もまた違法なものである、と判断した。
    (三) 論旨は、要するに、本件起工式は、古来地鎮祭の名のもとに社会の一般的慣行として是認され、実
    施されてきた習俗的行事はほかならず、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動には該当しないものである
    のに、これに該当するものとした原判決は、本件起工式の性質及び政教分離原則の意義についての判断を
    誤り、ひいて憲法二〇条の解釈適用を誤る違法をおかしたものであつて、右違法は、判決に影響を及ぼすこ
    とが明らかである、というのである。
    二 当裁判所の判断
    (一) 憲法における政教分離原則
    憲法は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(二〇条一項前段)とし、また、「何人も、宗教
    上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条二項)として、いわゆる狭義の信教
    の自由を保障する規定を設ける一方、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使
    してはならない。」(同条一項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはなら
    ない。」(同条三項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは
    維持のため、…………これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(八九条)として、いわゆる政教分
    離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
    一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかか
    わることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼
    方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するもの
    とされている。もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるもの
    がある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規
    定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」と
    いう同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとし
    て、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあ
    つて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、こ
    のような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令
    部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並
    ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の

    法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明
    示された。昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記の
    ような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障
    を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト
    教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このよ
    うな宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみで
    は足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつ
    た。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を
    理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。
    しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接
    保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を
    確保しようとするものである。ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとど
    まらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面にお
    いては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当
    然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の
    諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現
    実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなけれ
    ばならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態
    を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様
    な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支
    出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があ
    ることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等に
    おける教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつ
    て受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。これらの点にかんがみ
    ると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れ
    ず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に
    照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかか
    わり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で
    許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。
    右のような見地から考...

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