ジェンダーの起源と自己決定

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    ジェンダーの起源と自己決定 M.ダイアモンド博士講演に際して
    # 去る8月25,26日の両日に、大阪と岡山でミルトン・ダイアモンド博士の講演が行われました。本文は両講演のレポートというわけではないですが、かいつまんだ感想にあたります。
     ジェンダー学の関係者には広く承知されているように、ジェンダー、すなわち社会的性別の起源については、社会構築主義と本質主義が対立している。前者は、男性または女性に特有のふるまい、思考パターン、社会的役割などは、生物学的要素によって決定されているのではなく、人が社会生活を送る途上で、後天的に習得されるものであるとする。後者はジェンダーもまた生物学的要因によって先天的に決定されており、後天的に習得されるものは限られている、とする。  この対立の科学的な評価は別として、トランスジェンダーが問題になる以前から、フェミニズムにおいては立場を二分する論争になってきた。この点、女性に与えられた性役割(家事労働、職場での補助的業務等)からの解放を前面に掲げる立場からは、社会構築主義がその理論的な根拠になってきた。すなわち、社会的性別は本来根拠のないものであり、だからこそ変えうるものであると。そして、教育や啓発活動等を通じて性差をなくせば、性差別が解消されるというという考えが導き出され、性差をなくすという意味でのジェンダーフリーの運動が実践されていたりする。  一方、近年の性科学によれば、いわゆる脳の性分化説のように、男性と女性では脳の構造に差異があり、その結果出生後の社会行動にも本質的な差異が生じるという説が有力になりつつある。そして、これは自然科学的認識とは厳密に区別されるべきであるが、社会一般においても、男女の社会的性差についても本質的な差があるという理解が、科学に裏打ちされて一般化されつつある。丁度少し前に流行った、「話を聞かない男、地図が読めない女」のように。この点、社会構築主義に本拠をおくフェミニストからみれば、性差の固定化につながる脳の性差の存在は受け入れがたいであろうし、仮に受け入れたとしても、その社会的性差に及ぼす影響は、ごく小さいと主張するであろう。反対に、社会的性差を固定的に考える立場からは、やはり男女には差異があるのだから、それにふさわしい社会的役割があてがわれるべきである、と考えられることになろう。  ここでダイアモンド博士のとる立場は、出生後の社会的環境による影響を一定限度認めながらも、「人は出生時において、あらかじめ心理的性別に関する差を有している」(Individuals are psycho-sexually biased at birth)というものである。これには、『ブレンダと呼ばれた少年』に記されたような、いわゆる「マネーの双子」(一卵性双生児として生まれた男児の兄弟の一方が医療事故により男性器を消失し、ジョン・マネー博士の指導により女児として育てられたところ、マネー博士が社会構築説の実証例として学会で発表したにもかかわらず、実際には女児として育てられた方の子は性別違和に苦しみ、現在は男性として生活しているという実例)が根拠とされている。  ただ、ダイアモンド博士の、次に提唱するものは、「性自認や性指向に関する疑いをもったら、オープンかつ十分に話し合い、十分に情報を得た上で、成長後であってもいつでも性別を変更せよ」(Discuss openly and fully any doubut as to identity or orientation, and change of sex whene

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    ジェンダーの起源と自己決定 M.ダイアモンド博士講演に際して
    # 去る8月25,26日の両日に、大阪と岡山でミルトン・ダイアモンド博士の講演が行われました。本文は両講演のレポートというわけではないですが、かいつまんだ感想にあたります。
     ジェンダー学の関係者には広く承知されているように、ジェンダー、すなわち社会的性別の起源については、社会構築主義と本質主義が対立している。前者は、男性または女性に特有のふるまい、思考パターン、社会的役割などは、生物学的要素によって決定されているのではなく、人が社会生活を送る途上で、後天的に習得されるものであるとする。後者はジェンダーもまた生物学的要因によって先天的に決定されており、後天的に習得されるものは限られている、とする。  この対立の科学的な評価は別として、トランスジェンダーが問題になる以前から、フェミニズムにおいては立場を二分する論争になってきた。この点、女性に与えられた性役割(家事労働、職場での補助的業務等)からの解放を前面に掲げる立場からは、社会構築主義がその理論的な根拠になってきた。すなわち、社会的性別は本来根拠のないものであり、だからこそ変えうるものであると。そして、教育や啓発活動等を通じて性差をなくせば、性差別が解消されるというという考えが導き出され、性差をなくすという意味でのジェンダーフリーの運動が実践されていたりする。  一方、近年の性科学によれば、いわゆる脳の性分化説のように、男性と女性では脳の構造に差異があり、その結果出生後の社会行動にも本質的な差異が生じるという説が有力になりつつある。そして、これは自然科学的認識とは厳密に区別されるべきであるが、社会一般においても、男女の社会的性差についても本質的な差があるという理解が、科学に裏打ちされて一般化されつつある。丁度少し前に流行った、「話を聞かない男、地図が読めない女」のように。この点、社会構築主義に本拠をおくフェミニストからみれば、性差の固定化につながる脳の性差の存在は受け入れがたいであろうし、仮に受け入れたとしても、その社会的性差に及ぼす影響は、ごく小さいと主張するであろう。反対に、社会的性差を固定的に考える立場からは、やはり男女には差異があるのだから、それにふさわしい社会的役割があてがわれるべきである、と考えられることになろう。  ここでダイアモンド博士のとる立場は、出生後の社会的環境による影響を一定限度認めながらも、「人は出生時において、あらかじめ心理的性別に関する差を有している」(Individuals are psycho-sexually biased at birth)というものである。これには、『ブレンダと呼ばれた少年』に記されたような、いわゆる「マネーの双子」(一卵性双生児として生まれた男児の兄弟の一方が医療事故により男性器を消失し、ジョン・マネー博士の指導により女児として育てられたところ、マネー博士が社会構築説の実証例として学会で発表したにもかかわらず、実際には女児として育てられた方の子は性別違和に苦しみ、現在は男性として生活しているという実例)が根拠とされている。  ただ、ダイアモンド博士の、次に提唱するものは、「性自認や性指向に関する疑いをもったら、オープンかつ十分に話し合い、十分に情報を得た上で、成長後であってもいつでも性別を変更せよ」(Discuss openly and fully any doubut as to identity or orientation, and change of sex whenever by informed choice)というものである。博士は、前述のマネーの双子の他、本人の自己決定の及ばない時期に性別再指定手術をうけさせられる事例があった、インターセックスを念頭において発言しているが、トランスジェンダーについてもあてはまりうる。  このことを要約すると、博士はジェンダーのうち少なくとも性自認(個人が自分の性別を認識する意識)については本質主義(完全なそれではないが)をとりつつ、性役割等、ジェンダーを構成する他の部分については、自己決定を認めていることになる。  以上のテーゼは、社会構築主義にたち、性別を根拠のないものとし、かつ本質主義を性役割を固定し性差別を強化する学説であると批判していた向きからは、ある意味で矛盾ととられかねない。しかし、性差に関する本質主義/社会構築主義の対立と、性別に関する自己決定の問題は、本当に必然的な関係にあるのだろうか。  問題を整理すると、以下のようになる。  従来の議論は、   社会構築主義 → 性差は変更できる → 性別の自己決定を認める   本質主義 → 性差は変更できない → 性別の自己決定を認めない  というものであった。  しかし、これはジェンダーにおける性自認と性役割を区別しないために、混乱を招いている。  マネーとダイアモンドの両博士の対立を整理すると、次のようになる。   社会構築主義(マネー) → 性自認は変更可能 → 一旦性自認を確立した後は自己決定を認めない   本質主義(ダイアモンド) → 性自認は変更不可能 → 性役割において自己決定を認める  ということになる。  ここで留意すべきなのは、性差に関する本質主義/社会構築主義の対立は、もっぱら性自認に関するものであり、性役割に関する自己決定を認めるか否かとは、論理必然ではないことである。言い換えれば、性役割は、性自認の形成につき本質主義的に理解するか社会構築主義的に理解するかにかかわらず、可変であり、かつその選択は本来個人の自由意思に委ねられるべきものである。  もちろん、性自認と性役割は独立して存在するものでなく、相互に連携しあうものであるから、たとえば男性の性自認を持つ者が女性の性役割を担うことは稀であろう。その意味で性自認に関して本質主義をとるなら、性役割についても生物学的に決定づけられている、という言い方は全く否定することはできないであろう。  ただ、これはあくまで事実上そういえるという関係にとどまる。すなわち、性自認の形成につきいかなる立場をとろうと、性役割は個人の意思により変えうるという可能性はなくならない。  とすれば、ジェンダーに関する諸問題は、性自認の形成に関する立場にかかわらず、性役割に関する自己決定をいかに保障すべきか、という観点から解決できないか。こう考えると、本質主義に根ざした性別分業論と、社会構築主義に根ざした、性差の解消という意味でのジェンダーフリー論は、共に的を得ないまま議論を空転させていたことになる。  大阪の方の催しでは、パネラーの蔦森樹氏が、「私は今まで性別は無根拠であるということでやってきたが、それを貫くと、近年の性同一性障害医療や戸籍訂正など、性別の存在を前提とした場面で努力している人を蹴飛ばしてしまうことになる」「脳の性分化説を含め、近年は遺伝子レベルに至るまで人を区別し、差別・排除する動きが強まっているが、どうしてこのように差別を助長することばかりが考えられるのか理解しかねる」と発言していた。私は蔦森氏から、トランスジェンダーに関する性別の自己決定を早くから論じた点で強く影響を受けた記憶がある。しかし、ここでは氏が旧来の議論の枠に囚われ、ダイアモンド氏ほかの議論と噛み合わなかった点が残念であった。  社会構築主義・本質主義の対立と自己決定の問題については、近日中に「ジェンダーフリーを再構築する」という形で詳細に論じる予定です。
    (Sep.2001)
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/ge011.htm

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