功利主義について

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    功利主義について
    Ⅰ.快楽計算=功利主義
    すべての動物は快をひたすらに追い求め苦をひたすらに避けるものなのだが人間は理性によって目の前の現実とそれによって起こる事態における快と苦を足し引きして計算することができ、この計算結果によっては目の前の苦を甘受することもある、というものである。この快楽計算というものがもっとも顕著に現れるのは、18世紀後半から19世紀にかけてである。
     18世紀末、イギリスのベンサムが功利主義を確立した。功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を大原則とする思想であり、快楽計算という考え方はこの功利主義のなかにもっとも顕著に現れる。ベンサムは自身の著書の中で次のように述べている。
    「自然は人類を快楽と苦痛という二人の君主の支配のもとにおいた。我々がなすべきことを指示し、またなすであろうことを決定するのは、ただ快楽と苦痛だけである。一方においては正邪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖がこの二つの快苦の玉座に結び付けられている。我々が何をしようと、何を言おうと、何を考えようと、その全てにおいて快楽と苦痛とが我々を支配している。それから逃れようとどんなに努力しても、その努力はこのような従属を証明し、それを確実なものにするのに役立つだけである。」(『道徳および立法の諸原理序説』)
    これはベンサムの人間観そのものである。このことからも分かるように彼にとっての幸福とは積極的には快楽、消極的には苦痛の回避を意味する。これこそが快楽計算の原則なのだ。以上のことから快楽計算の原則を中心に据える思想が功利主義といえるので、快楽計算の原則とは要するに功利主義のことなのである。
    Ⅱ.自我、実存の喪失
     哲学における自我と精神分析学における自我は少し異なるが以下ではどちらかといえば哲学的な自我ということで話を進めていく。自我とは大雑把に言うと他なるものから自らを区別する際の中核であるので、これは人間を個別具体的かつ主体的な事実存在として捉える実存主義と同じようなものだということもできる。
     現代社会では人々はこの実存や自我を喪失してしまっているということができる。現代の圧倒的な科学技術、巨大な社会機構の前で、人間は知らず知らずのうちに、単なる無力な一部品、誰とでも取り替え可能な一部品へと成り下がってしまっている。こうした人間の物化・商品化・機械化・画一化の傾向はいっこうにとどまるところを知らない。今日ほど人間が、自己の理性の頼りなさを痛感し、人間の儚さと不安定さにおののいている時代はない。このような社会状況のなかで、個性を喪失し、平均化・画一化されていく人間は、その無力感・不安感・孤立感によって絶望にさいなまれ、結果、実存・自我を喪失していく。
    Ⅲ.現代文明と功利主義
    前段の記述から実存の喪失の原因は現代文明にあるといえる。ではなぜ現代文明はそのようなことを招いたのか。実は功利主義がその最大の原因なのだ。功利主義のスローガンは「最大多数の最大幸福」だが、この「最大多数」という言葉から「民主主義」が生まれ、最大幸福という言葉から資本主義が生まれた。功利主義というのはそのスローガンからもわかるように人間の欲望を全面肯定する思想で、人々は、より自由になりたい、より豊かになりたいと願って功利主義に基づく文明を発展させてきた。その結果が現代の文明社会というわけだ。
     しかしここで一つの疑問が浮かぶ。功利主義は近代にイギリスで誕生した思想だが、イギリスでこの思想の内容を具体的なかたちに現すことは事実不可能であって、たとえ出来たとしてもかなりの抵抗があって現

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    功利主義について
    Ⅰ.快楽計算=功利主義
    すべての動物は快をひたすらに追い求め苦をひたすらに避けるものなのだが人間は理性によって目の前の現実とそれによって起こる事態における快と苦を足し引きして計算することができ、この計算結果によっては目の前の苦を甘受することもある、というものである。この快楽計算というものがもっとも顕著に現れるのは、18世紀後半から19世紀にかけてである。
     18世紀末、イギリスのベンサムが功利主義を確立した。功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を大原則とする思想であり、快楽計算という考え方はこの功利主義のなかにもっとも顕著に現れる。ベンサムは自身の著書の中で次のように述べている。
    「自然は人類を快楽と苦痛という二人の君主の支配のもとにおいた。我々がなすべきことを指示し、またなすであろうことを決定するのは、ただ快楽と苦痛だけである。一方においては正邪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖がこの二つの快苦の玉座に結び付けられている。我々が何をしようと、何を言おうと、何を考えようと、その全てにおいて快楽と苦痛とが我々を支配している。それから逃れようとどんなに努力しても...

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