江戸幕府衰亡・崩壊に至るまでの要因

閲覧数2,546
ダウンロード数5
履歴確認

    • ページ数 : 2ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

     江戸幕府衰亡・崩壊に至るまでの要因のうち、最も大きいであろう二つのものがある。それは、鎌倉時代からの封建制度と、幕府の上に朝廷ありという尊王の志である。江戸幕府二百八十年間を支えるに最も力添えをしたであろうこの二つが、何故崩壊の要因となってしまったのであろうか。
     関が原の戦いにより日本を統治した徳川家康公は、江戸幕府を開幕した。その政治の軸を決めるにあたり、武家社会より続く封建の損得利害について追究した。封建制度は鎌倉時代から、足利氏・織田氏・豊臣氏にわたり数百年もの間成長・発展していった。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

     江戸幕府衰亡・崩壊に至るまでの要因のうち、最も大きいであろう二つのものがある。それは、鎌倉時代からの封建制度と、幕府の上に朝廷ありという尊王の志である。江戸幕府二百八十年間を支えるに最も力添えをしたであろうこの二つが、何故崩壊の要因となってしまったのであろうか。
     関が原の戦いにより日本を統治した徳川家康公は、江戸幕府を開幕した。その政治の軸を決めるにあたり、武家社会より続く封建の損得利害について追究した。封建制度は鎌倉時代から、足利氏・織田氏・豊臣氏にわたり数百年もの間成長・発展していった。土地を仲立ちとし、主君である将軍が家臣である諸侯や大名などに領地を与えて保証する御恩というものに対し、家臣は家来として仕え、軍役の義務を課する奉公という主従関係から成り立っている。このように長きにも渡っているものを容易に廃止しにしてしまうと、大きな混乱を招くとして、家康公はこれを徐々になくしていく方向性を見出し、三代将軍家光公まで行うこととなった。このようにして、家康公の意に反して封建制度は続くこととなった。家康公は封建制度を用い、諸子・親戚・功臣を御家門・御諸代として外様の牽制を行った。初めは...

    コメント1件

    chisato38 購入
    読みやすかった
    2006/09/02 22:04 (18年2ヶ月前)

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。