二人称の死

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    他者とのかかわりと生きることについては、私たちのグループ学習で主要なテーマとしたものだった。人はひとりでは生きていけないと、言い古された文句があるが、人間として多少なりとも心豊かに生きていこうとするならば、そこには他者に配慮し、喜びを分かち合い、時にそのかかわりについて悩み苦しむことが必要不可欠である。生にもまた、物質的に満たされることと精神的に満たされることの両方が必要であり、精神的な充足を得るのは、やはり喜びも痛みも内包した“かかわり”によるところが大きいのだと思う。
    しかし、今回の「二人称の死」について考えていくと、実はこの生に関する考察が、死にも敷衍して考えられるのではないかと思った。グループ学習の段階では、生との関連性を深められなかった「死」であったが、今回の文章を読んでいて、実は生を共有するということが当然に、これまで自分では思い至らなかった「死の共有」をも内包しているということを、ふと感じた。
    人間が死を避けられない以上、生身の人間としてのかかわりには必ず終わりが来るわけであり(もちろん精神的な部分によるかかわりはありつづけ得るが)、そのかかわりが完結するために、人は何らかの行為や気持ちの変遷を経なければならない。そしてたぶん、ここにおける行為や心情というのは、生の共有の終焉という究極の苦しみや悲嘆であるが、いっぽうで死にゆくものと残されたものとの間における、究極の思いやりや配慮なのだろう。
    たとえば、現代の医療では完治しない重い病気をもつ子どものドキュメンタリーを読んだり、テレビで見る機会があるが、どれにも共通して感じることがある。大人もそうなのだから、治療の段階では、そのつらさに耐えなければならない子どもたちは、当然周囲の人間に当たったりするだろう。しかし、死に臨んでの彼らは健気なまでに、自分の死よりもそれを乗り越えて生きていかなければならない親を心配するのだ。

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    人間学レポート「二人称の死」
    A0533003
    雨貝 未来
     他者とのかかわりと生きることについては、私たちのグループ学習で主要なテーマとしたものだった。人はひとりでは生きていけないと、言い古された文句があるが、人間として多少なりとも心豊かに生きていこうとするならば、そこには他者に配慮し、喜びを分かち合い、時にそのかかわりについて悩み苦しむことが必要不可欠である。生にもまた、物質的に満たされることと精神的に満たされることの両方が必要であり、精神的な充足を得るのは、やはり喜びも痛みも内包した“かかわり”によるところが大きいのだと思う。
    しかし、今回の「二人称の死」について考えていくと、実はこの生に関する考察が、死にも敷衍して考えられるのではないかと思った。グループ学習の段階では、生との関連性を深められなかった「死」であったが、今回の文章を読んでいて、実は生を共有するということが当然に、これまで自分では思い至らなかった「死の共有」をも内包しているということを、ふと感じた。
    人間が死を避けられない以上、生身の人間としてのかかわりには必ず終わりが来るわけであり(もちろん精神的な部分によるかか..

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