レッシングについて

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    資料紹介

    まず初めに、
    1 作者について  
    2 作品について
    あらすじ
    3つの宗教
    3 宗教間の争い
    レコンキスタ
    十字軍
    現代の宗教戦争
    4 さいごに
    の順番で述べたい。
    1 作者について
    ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781)
     
    ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カントなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。
      ザクセン州のカメンツと言う小さな町のプロテスタントの牧師の息子として生まれる。ライプツィヒ大学で、医学と神学を学び、その後に著作・創作活動とともにさまざまな職を歴任。まずはベルリンとライプツィヒとで、1748-1760年までには著述家、編集者として働く。弱冠18歳にして処女作『若い学者』を上演。
    晩年には図書館の司書も勤めた。この図書館司書在任中、知人の牧師ゲーツェとドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こした。きっかけは、レッシングがハンブルグで得た友人の遺稿を彼に代わり匿名で1774年から1778年にかけて発表したことである。これが正統派の忌諱にふれ、論争が激化。1778年夏以降、レッシングは論争文の執筆を禁止されてしまう。そして、『自分の説教も、すくなくとももとの講壇すなわち劇場でなら、邪魔されずに聞いてもらえるか試そうとして…』この代表作でもある『賢者ナータン(賢人ナータン)』を執筆したのである。
    また、生涯を通じて各地へ旅行をし、様々な見聞し、劇作・詩の下地を得る。    1781年に客死。ドイツにおいて、劇作を専門職とした最初の人物でもあった。
    2 作品について
    『賢人ナータン』(Nathan der Weise)
    1779年。韻文5幕の戯曲。
     宗教に関するレッシングの所信を著した思想劇。
     宗教的寛容を説いたこの作品は、その理念故にレッシングの生前に上演される事はなく、彼がこの世を去った約2年後の1783年になってようやくベルリンで初演されたのである。
    ●あらすじ
     舞台は中世のイェルサレム。
     賢明なユダヤ人の豪商ナータンは、財政に窮したイスラム王サラディンから、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の中で、どれが最も良い宗教であるか、と問われる。王は、ナータンが返答できなければ献金させるつもりであった。
     そこで、ナータンはボッカチオの『デカメロン』の中にある3つの指輪の話で例え、宗派を超越した宗教的心情こそ真の宗教に適うものだと説いて、切り抜ける。
     一方で、ナータンが預かって養女としていた娘の恋愛事件から、その娘が実はイスラム王の姪であり、その恋人が彼女の兄であった事が分かる。
     戯曲の筋の上でも、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の教徒が、それぞれ宗派を超えて、あたたかい人間愛で結ばれ、終わる。
    ●3つの宗教
    ①ユダヤ教
     イスラエルに興った啓示宗教のひとつ。
     モーセの律法を基礎として唯一神ヤハウェを信奉し、イスラエルの民の為に神の国を地上にもたらすという選民思想とメシア信仰を特色とする。
     バビロンの捕囚以後に教団として発達する。
     下の二つと違い、 信仰 、 教義 よりも、まず 行為 ・ 行動 の実践と学究をすすめている。
     このユダヤ教を信仰する人々こそが、ユダヤ人なのである。
    ②キリスト教
     パレスチナに興り、ローマ帝国の国教となる。
     ユダヤ教から派生した一神教である。
    イエスをキリストと認め、その人格と教えを中心とする宗教。

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    まず初めに、
    1 作者について  
    2 作品について
    あらすじ
    3つの宗教
    3 宗教間の争い
    レコンキスタ
    十字軍
    現代の宗教戦争
    4 さいごに
    の順番で述べたい。
    1 作者について
    ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781)
     
    ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カントなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。
      ザクセン州のカメンツと言う小さな町のプロテスタントの牧師の息子として生まれる。ライプツィヒ大学で、医学と神学を学び、その後に著作・創作活動とともにさまざまな職を歴任。まずはベルリンとライプツィヒとで、1748-1760年までには著述家、編集者として働く。弱冠18歳にして処女作『若い学者』を上演。
    晩年には図書館の司書も勤めた。この図書館司書在任中、知人の牧師ゲーツェとドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こした。きっかけは、レッシングがハンブルグで得た友人の遺稿を彼に代わり匿名で1774年から17...

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