学歴・学校歴による判断の危険性と画一的ヒエラルキーによる差別可能性

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     私は一部の高学歴者が高い社会的地位を手に入れる状態があるとすれば、それを問題であると考える立場にある。ただしその考えには二つの前提がある。それは、?結果が学歴あるいは学校歴という「属性」によってのみ決定されること、?ほぼ全ての社会的地位が何らかの画一的なヒエラルキーによって順序付けられているということである。どちらの前提も現代日本には存在する、という考えのもとで以下を考える。
     まず?について、それを問題とする所以は、周知のことではあるが、学歴や学校歴が個人の能力の全体を推し測られていることにある。確かに、教育機関に長く籍を置けば、学校で習得しうるいわゆる「学力」の習得は、教育機関を早い段階で抜け出したものより高く予想できるだろう。しかし、それはあくまでも予想であって、中卒・高卒後に自主的に学業に励む人がいても何ら不思議ではないし、大学まで進学したところで、その場限りの対策のみで学業に専念しない人は前者の彼より「学力」が低いと見なされてもおかしくはない(その割合は少ない、と大方予想されるが)。無論それは学校歴に関しても同様で、一流高校、一流大学に在籍・卒業していたとしても「学力」が身についているかどうかは個人の能力を―短期的な「試験」ではなく、長期的な観察をして―見てみなければ分からないのではないだろうか。さらに、今までの論点はあくまでも「学力」という指標を前提にしているが、そもそもこの「学力」なるものが、企業社会において真に有用なものとなりうるのか、それについても予想の域を出ない。それではこの予想する行為は問題となるだろうか。大方その予想が成立するとすれば、そこに問題は存在しないのではないだろうか。だが、その予想は企業のようなマクロな観点からすれば、安易なその判断によって大きな損失を招くリスクともなりうるだろう。

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    学歴・学校歴による判断の危険性と画一的ヒエラルキーによる差別可能性
    私は一部の高学歴者が高い社会的地位を手に入れる状態があるとすれば、それを問題であると考える立場にある。ただしその考えには二つの前提がある。それは、①結果が学歴あるいは学校歴という「属性」によってのみ決定されること、②ほぼ全ての社会的地位が何らかの画一的なヒエラルキーによって順序付けられているということである。どちらの前提も現代日本には存在する、という考えのもとで以下を考える。
    まず①について、それを問題とする所以は、周知のことではあるが、学歴や学校歴が個人の能力の全体を推し測られていることにある。確かに、教育機関に長く籍を置けば、学校で習得しうるいわゆる「学力」の習得は、教育機関を早い段階で抜け出したものより高く予想できるだろう。しかし、それはあくまでも予想であって、中卒・高卒後に自主的に学業に励む人がいても何ら不思議ではないし、大学まで進学したところで、その場限りの対策のみで学業に専念しない人は前者の彼より「学力」が低いと見なされてもおかしくはない(その割合は少ない、と大方予想されるが)。無論それは学校歴に関しても同..

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