ヴァルター・ベンヤミン『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』を読んで

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    ベンヤミンの文章の和訳に初めて触れた感想は、なんて意味深く、感慨深い文章なのだろう、というものであった。センテンスのひとつひとつに心を揺り動かされ、彼の幼年時代の経験と似たような自分の経験を探してみたり、そのようなものが見つからない場合には、彼の気持ちに近づいてみようとしたりした。彼の書きとめている事象は、ただの風景の描写であったり、遅刻や手伝いなどの日常の記録であるのにもかかわらず、その内容は、大変興味深いものであった。自分が普段何気なくしている捉え方に、疑問を投げかけざるを得なくなったのだ。まず、彼がこの文章を書いた経緯から驚かされた。思い出を、思い出として忘れないでいるために思い起こして書き留めたわけではなくて、亡命生活において、イメージが郷愁を呼び覚ますことのないように、「予防接種」として彼の内部に呼び起こしたというのである。
    ここで、ベンヤミンの、時間の捉え方に注目したい。「ロッジア」で「この場所が忘却の手に落ちる前に、ときおり芸術が、ここを美しく輝かせようと試みたものだ。」とあり、「その壁に沿って幅広の帯状に走るポンペイ風の赤は、こうした取り残されてしまったところに淀んでいる時間に、まさにおあつらえ向きの背景だった。中庭のほうに開かれている、影の多いこの小さな空間のなかで、時間が古びていったのだ。」「私が自宅のロッジアで出会う午前は、すでにずっと以前から午前だったので、ほかのどこで出会う午前よりも、もっと午前そのものであるように思われた。私がここで午前が来るのを待つということは、決してありえなかった。つねに午前のほうが、すでにそこで私を待ち受けていた。私がそこに午前をやっと見つけ出したときには、午前はずっと前からそこにいた、というよりも、いわば流行おくれになってしまっていた。」とあった。また、「遅刻」では、「校庭の時計は私が犯した罪のせいで壊れているように見えた。」とあって、これらの表現の仕方から、ベンヤミンが、時間というものを、絶対的なものとしては捉えていないことが分かった。時間は、物理的には、規則的に進んでいくものであるが、彼は他のものとの関係性を持たせているのである。確かに、時間は、感じる側にとって、必ずしも一定の速度ではないだろう。まだ解答が終わらない時の試験終了間際10分や、盛り上がっているカラオケの終了前10分が、とても短いのに対して、つまらないと感じている授業の10分間は、とても長い。私達の生活は、常に時間と共に行われていく。時間という存在があって、その中に私達がいるといった、通常の考え方をするのか、私達の存在と生活があって、そこから時間が形成されていくというように、ベンヤミン的な考え方をするのかは、非常に意義がある問題だと考える。

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    ヴァルター・ベンヤミン『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』を読んで
    4103102k 澁谷 友季
    ベンヤミンの文章の和訳に初めて触れた感想は、なんて意味深く、感慨深い文章なのだろう、というものであった。センテンスのひとつひとつに心を揺り動かされ、彼の幼年時代の経験と似たような自分の経験を探してみたり、そのようなものが見つからない場合には、彼の気持ちに近づいてみようとしたりした。彼の書きとめている事象は、ただの風景の描写であったり、遅刻や手伝いなどの日常の記録であるのにもかかわらず、その内容は、大変興味深いものであった。自分が普段何気なくしている捉え方に、疑問を投げかけざるを得なくなったのだ。まず、彼がこの文章を書いた経緯から驚かされた。思い出を、思い出として忘れないでいるために思い起こして書き留めたわけではなくて、亡命生活において、イメージが郷愁を呼び覚ますことのないように、「予防接種」として彼の内部に呼び起こしたというのである。
    ここで、ベンヤミンの、時間の捉え方に注目したい。「ロッジア」で「この場所が忘却の手に落ちる前に、ときおり芸術が、ここを美しく輝かせようと試みたものだ。」とあ..

    コメント1件

    matsuwo 購入
    論理構成がよい
    2007/01/04 13:35 (9年11ヶ月前)

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