デカルトの「われ思う、故にわれ在り」

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    資料紹介

     「コギト・エルゴ・スム」ラテン語で、「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)。これはフランスの哲学者・数学者であり、「近代哲学の父」といわれるルネ・デカルトの有名な言葉である。方法的懐疑の末に、デカルトは哲学のこの基本原理に到達した。
     デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。このやりかたを「方法的懐疑」という。
     まず始めに疑ってみたのは書物の知識や人から聞いた知識などの、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。遠くから見ると丸かったものが近くで見ると四角いものであったりすることがよくあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのである。よって感覚的知識は疑わしいといえる。
     更にデカルトは自分の外部に対する感覚的知識を疑うだけでなく、自分自身の身体感覚でさえ疑ったのである。なぜなら、私は今レポートを書いている事を確かに感じているが、実はそのような夢を見ているだけかもしれないというのである。確かによく考えてみると、私自身も夢を見ているとき、現実との区別がつかないときがある。よって夢と現実の区別はそれほど明確ではなく、ちょっとでも疑えるわけであるから、身体感覚も疑わしいといえる。
     しかし身体感覚が疑わしいとしても、知性の考える数学の真理は確かだと考えられる。例えば、1+1=2という計算は我々にとって絶対に確実な真実である。しかしデカルトは、疑いを徹底するためにある思考実験をした。
     「実をいえば「1たす1は10」が本当の真理なのに、何でもできる全能の神、さもなければ悪い霊がいて、われわれが誤って常に答えを2と計算するようにしむけており、しかも、われわれがそれを何ら誤りとは思わないようにしているとしたら、どうであろうか。

    資料の原本内容( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    デカルトの「われ思う、故にわれ在り」の「われ」はどのようなものなのか、さらに、この言明の意味・意義について述べよ。
    「コギト・エルゴ・スム」ラテン語で、「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)。これはフランスの哲学者・数学者であり、「近代哲学の父」といわれるルネ・デカルトの有名な言葉である。方法的懐疑の末に、デカルトは哲学のこの基本原理に到達した。
     デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。このやりかたを「方法的懐疑」という。
     まず始めに疑ってみたのは書物の知識や人から聞いた知識などの、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。遠くから見ると丸かったものが近くで見ると四角いものであったりすることがよくあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのである。よって感覚的知識は疑わしいといえる。
     更にデカルトは自分の外部に対する感覚的知識を疑うだけでなく、自分自身の身体感覚で..

    コメント1件

    db00093 購入
    とても参考になりました。ありがとうございました。
    2006/07/16 23:14 (10年5ヶ月前)

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