朱子について

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    名は熹、字は元晦、号は晦庵(1130〜1200)である。朱熹のことを朱子と呼ぶのは尊敬の意を表している。朱子が生きた時代は、中国の王朝名でいえば宋の時代である。朱子は19歳で科挙に合格し、左迪功の官位を授かり、泉州同安県(福建省)の主簿に任命されたのを振り出しに、以後、南康軍の知事、浙東の荒政の責任者、州の知事、潭州の知事、天子の講官などを歴任し、特に廬山の白鹿洞書院の復興を始めとする文教立て直しの政策に力を入れ、また飢餓救済、農民の税負担の軽減、農地改革など、農民の生活の安定に尽力した。朱子は、官僚政治家としては、必ずしも成功した人とは言えない。むしろ挫折することのほうが多かった。彼は理想主義者で、狷介な性格をしていたのもその一因である。科挙に合格してから死に至るまでの50年間、地方行政に携わったのが9年間、中央政庁にはたったの40日間しか身を置かず、その生涯の殆どは、宋代特有の官制である俸祀職という有名無実の閑職に就任して、家居学究の道を歩み、後進の指導に当った。
     朱子が14歳の時に父の朱松を亡くし、父の遺言で劉彦冲、劉到中、胡原仲に師事した。彼が三先生に学んだことは「学問とは己の為にするものであって、人の為にするものではない。」ということである。本当の学問は、科挙に合格する為のものではなくて、あくまでも人間としての自己完成を目指すものであるということである。三先生に師事する間朱子は「大学」「中庸」「論語」「孟子」といった儒学の古典を読んで勉強したのを始めとして、禅仏教・道教・文章・楚辞・詩・兵法にまで学問の幅を広げ、感心の赴くままに貪欲に勉強した。この三先生の学問には当時流行の禅学の影響があり、儒学としての純粋性には問題があった。その朱子を再び儒学の立場に引き戻したのは、後に朱子が師事した李の指導によるものだった。

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    朱子
    (原文)
    少年易老学難成             少年老い易く学なり難し
    一寸光陰不可軽             一寸の光陰軽んずべからず
    未覚池塘春草夢             未だ覚めず池塘春草の夢
    階前梧葉已秋声             階前の梧葉已に秋声
     上の詩は秋学期に取り上げた思想家“朱子”によるものです。私は朱子について書きたいと思います。
    名は熹、字は元晦、号は晦庵(1130~1200)である。朱熹のことを朱子と呼ぶのは尊敬の意を表している。朱子が生きた時代は、中国の王朝名でいえば宋の時代である。朱子は19歳で科挙に合格し、左迪功の官位を授かり、泉州同安県(福建省)の主簿に任命されたのを振り出しに、以後、南康軍の知事、浙東の荒政の責任者、漳州の知事、潭州の知事、天子の講官などを歴任し、特に廬山の白鹿洞書院の復興を始めとする文教立て直しの政策に力を入れ、また飢餓救済、農民の税負担の軽減、農地改革など、農民の生活の安定に尽力した。朱子は、官僚政治家としては、必ずしも成功した人とは言えない。むしろ挫折することのほうが多かった。彼は理想主義者で、狷介な性格をしていたの..

    コメント1件

    higasiyama53 購入
    大いに不満
    2006/01/16 17:27 (10年11ヶ月前)

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