一遍上人の一生

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     延応元年(1239)伊予の国(愛媛県)に誕生、河野通信(1156〜1223)の孫であり、父は河野通広(生没年不詳)で、出家名は如仏という。一遍が幼い頃の名前は松寿丸であった。
     宝治2年(1248)母が亡くなり、無常の理を悟る。父の命で出家し随縁と名のる。
     建長3年(1251)春、善入(生没年不詳)と連れたって、九州大宰府の聖達(1203〜1279)の禅室に入る。聖達の指示により、随縁は浄土の初歩的勉学のため肥前の国(佐賀県)清水の華台(?〜1251〜?)のもとに行く。華台の命により、智真と改める。
     建長4年(1252)春、再び聖達のもとに帰り12年修行する。弘長3年(1263)5月24日、父通広の死により故郷の伊予の国に帰国する。
     文永8年(1271) 春、信州の善光寺に参籠し、二河白道の図を写し帰る。秋、伊予の国で窪寺に閑室を設け、東壁に二河白道を掛け、人との交わりを絶ち念仏三昧に入る。このとき十一不二頌を確立する。この頃、聖戒はそばにひとりで仕え、修行を助ける。
     文永11年(1274)2月8日、妻の超一(?〜1274〜?)、娘の超二(?〜1274〜?)、下女の念仏房(?〜1274〜?)を伴い、伊予の国を旅立つ。聖戒は5、6日同行して桜井で別れ、伊予の国に戻る。その後天王寺に参籠し、高野山に入る。夏、熊野本宮の証誠殿に参籠した時そこで念仏賦算の論理と方法を知る。名を一遍と改め、本宮から舟で熊野川を下る。6月13日新宮に詣でたが、ここまで同行してきた3人に別れをつげ、聖戒には手紙をつけて念仏の形木を送り届けた。
     健治元年(1275)、京都に入り西海道を経て、秋の頃、伊予の国に戻る。
     健治2年(1276)伊予の国を通り、聖達の禅室に行く。その後、大隈正八幡宮(鹿児島)に参詣する。

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    延応元年(1239)伊予の国(愛媛県)に誕生、河野通信(1156~1223)の孫であり、父は河野通広(生没年不詳)で、出家名は如仏という。一遍が幼い頃の名前は松寿丸であった。
    宝治2年(1248)母が亡くなり、無常の理を悟る。父の命で出家し随縁と名のる。
    建長3年(1251)春、善入(生没年不詳)と連れたって、九州大宰府の聖達(1203~1279)の禅室に入る。聖達の指示により、随縁は浄土の初歩的勉学のため肥前の国(佐賀県)清水の華台(?~1251~?)のもとに行く。華台の命により、智真と改める。
    建長4年(1252)春、再び聖達のもとに帰り12年修行する。弘長3年(1263)5月24日、父通広の死により故郷の伊予の国に帰国する。
    文永8年(1271) 春、信州の善光寺に参籠し、二河白道の図を写し帰る。秋、伊予の国で窪寺に閑室を設け、東壁に二河白道を掛け、人との交わりを絶ち念仏三昧に入る。このとき十一不二頌を確立する。この頃、聖戒はそばにひとりで仕え、修行を助ける。
    文永11年(1274)2月8日、妻の超一(?~1274~?)、娘の超二(?~1274~?)、下女の念仏房(?~1274~..

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