吉田書簡から見た日中講和問題

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    吉田書簡から見た日中講和問題
    1951年9月8日、日本を含めて49カ国がサンフランシスコ平和条約に調印し、また同日、日米両国代表は日米安全保障条約に調印した。翌52年4月28日、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が発効して、日本は独立国家として国際社会に復帰した。
     日本にとって現実的で実り多いサンフランシスコ講和であったが、支払うべき代償もあった。まず日本は、ソ連をはじめとする共産主義諸国との講和が出来なかった。また中国の代表もまたこの会議に招請されなかった。中国は、北京・台湾のどちらが正統政府かという問題で米英の意見が対立しており、米英の間に、1951年6月、二つの中国政府のいずれの代表も招請せず、どの中国政府と講和するかは、後日の日本政府の選択に任せるという、「ダレス・モリソン合意」が成立したからである(1)。
     講和会議から数ヶ月後の1951年12月、講和の推進役だったダレスが日本を訪問し、吉田茂首相と交渉の末、吉田は「吉田書簡」の送付に同意した。この書簡は、国民政府(中華民国国民政府を国民政府、中華人民共和国を人民中国と略記)と講和する意向を表明し、人民中国と二国間条..

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