岸信介の外交政策

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    資料紹介

    1.はじめに
    1957年2月、病気のため在職わずか2ヶ月で辞任した石橋湛山に代わって首相になった岸信介は、国内政治体制を「占領政治体制」から脱却させ、独立国家にふさわしい体制につくり変えることを目指し、外交においては敗戦から立ち直りつつあった日本の国際的地位の向上に強い意欲を持っていた。
    岸内閣に対する評価は、時代の変化とともに変わってきているが、これは岸内閣のどの側面を中心に評価を行うのか、また岸内閣をどの内閣と対比しつつ評価するのかによって異なっている。さらに評価を行う時点での資料の状況も評価の変遷と関係がある。以下、岸内閣の外交に対する評価の変遷をたどりつつ、岸内閣外交の論点を探っていきたい。


    2.日中外交
     サンフランシスコ講和条約後、日本と中華人民共和国には、民間レベルの経済・文化交流を漸進的に増やすことで、関係を改善しようとする動きが出ていた。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    岸内閣外交の整理
    目次
    1.はじめに
    2.日中外交
    3.日米外交
    4.東南アジア外交
    5.おわりに
    参考・引用文献
    1.はじめに
    1957年2月、病気のため在職わずか2ヶ月で辞任した石橋湛山に代わって首相になった岸信介は、国内政治体制を「占領政治体制」から脱却させ、独立国家にふさわしい体制につくり変えることを目指し、外交においては敗戦から立ち直りつつあった日本の国際的地位の向上に強い意欲を持っていた。1956年12月に国連加盟が実現し、翌1957年に岸内閣が打ち出した『外交青書』第1号は、戦後の日本外交に3つの原則を打ち立てた。①「国連中心」、②「自由主義諸国との協調」、③「アジアの一員としての立場の堅持」という三原則である。この外交三原則には岸の外交姿勢がよく現れている。
    岸内閣に対する評価は、時代の変化とともに変わってきているが、これは岸内閣のどの側面を中心に評価を行うのか、また岸内閣をどの内閣と対比しつつ評価するのかによって異なっている。さらに評価を行う時点での資料の状況も評価の変遷と関係がある。以下、岸内閣の外交に対する評価の変遷をたどりつつ、岸内閣外交の論点を探っていきたい。...

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