カナダ・オーストラリアにおける「多文化主義」について

閲覧数5,228
ダウンロード数42
履歴確認

    • ページ数 : 7ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    はじめに
     「多文化主義」を辞書で引くと、「一社会に複数の文化が対等な関係で共存することをよしとする考え方。他民族国家における民族間関係の一モデルでもある」とある。関根政美の『多文化主義の到来』によると、カナダやオーストラリアで「多文化主義」の有効性が認識され始めたのは1970年代であった。また、「その後、英国、スウェーデン、その他のヨーロッパでも程度に差こそあれ、移民・難民、外国人労働者あるいは周辺地域民族集団の統合策として導入されている」とある(42-43)。そこで、この「多文化主義」をいち早く取り入れたカナダとオーストラリアに焦点を当て、一章ではカナダにおける、二章ではオーストラリアにおける、「多文化主義」の誕生や歴史的背景について述べる。さらに三章では、両国の類似点に、四章では相違点について述べていく。
    一章:カナダにおける「多文化主義」の誕生と歴史的背景
     西川長夫らによる『多文化主義・多言語主義の現在:カナダ・オーストラリア・そして日本』(以下『多文化主義・多言語主義』)のカナダの章の「カナダの多文化主義の意味するもの――歴史と政治的ダイナミズム」によると、カナダを研究するにあたって、イギリス系カナダ人とフランス系カナダ人がどのような関係にあったのかを解明することはきわめて重要なことである。(加藤普章 77)カナダの歴史を簡単に説明すると、1497年カボット(Giovanni Caboto)が欧州人として始めてカナダを発見した。16世紀にフランス人が探検し、「ニューフランス」の名を与えた。17世紀から18世紀に植民地をめぐるイギリスとフランスの諸戦争の結果、1763年のパリ条約でイギリスの植民地となったが、1774年にはケベック法を制定し、フランス人の伝統尊重を約束した。その後、建国メンバーとしてのフランス系とイギリス系との関係は1867年に英領北アメリカ法に正式に記された。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

         カナダ・オーストラリアにおける「多文化主義」について
    はじめに
     「多文化主義」を辞書で引くと、「一社会に複数の文化が対等な関係で共存することをよしとする考え方。他民族国家における民族間関係の一モデルでもある」とある。関根政美の『多文化主義の到来』によると、カナダやオーストラリアで「多文化主義」の有効性が認識され始めたのは1970年代であった。また、「その後、英国、スウェーデン、その他のヨーロッパでも程度に差こそあれ、移民・難民、外国人労働者あるいは周辺地域民族集団の統合策として導入されている」とある(42-43)。そこで、この「多文化主義」をいち早く取り入れたカナダとオーストラリアに焦点を当て、一章ではカナダにおける、二章ではオーストラリアにおける、「多文化主義」の誕生や歴史的背景について述べる。さらに三章では、両国の類似点に、四章では相違点について述べていく。
    一章:カナダにおける「多文化主義」の誕生と歴史的背景
     西川長夫らによる『多文化主義・多言語主義の現在:カナダ・オーストラリア・そして日本』(以下『多文化主義・多言語主義』)のカナダの章の「カナダの多文化主義の意味...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。