教育相談と私の目標

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    資料紹介

     自分は現在塾講師のバイトをしている。大学受験突破を目指す高校生をもっており、担当科目は数学である。正規社員とは違うとはいえ、生徒の目から見ればやはり「先生」であり、その点では社員と同等の責任を負っていると自分に言い聞かせている。塾の教師をやっていると、「教育相談」を受けることが多い。だいたいは担当科目である数学についての伸び悩みであるが、部活を続けるべきか、習い事を続けるべきかといった生活面での相談から、志望校、ひいては将来についてまで幅広い相談を受ける。
     自分はそういった様々な相談に対してよくある過ちを犯しそうになる。それは自分と生徒とでは周りの環境が全く違うということを考えない、という過ちである。自分は関西の灘という学校に通っていたのだが、そこは関西トップの進学校であり、学校の授業を真面目に聞いていれば東大・京大といった有名校にすんなりと合格することができる。したがって、時間的余裕がわりとあり自分は部活動を高3まで続けることが出来た。その結果得たものは大きく、自分の中に「続けることは本当に大切」というある種信念のようなものが芽生えている。従って生徒から「部活動を高3まで続けるべきでしょうか?」と聞かれると、ついつい即答で「続けたほうがよい」と言ってしまいそうになる。しかし、その生徒の状況は自分のそれとは異なっていることに留意しなければならない。生徒は本当に現役合格を切望しており、そのために必要な時間を部活動が圧迫してしまうのであれば、「やめた方がいいのではないか?」と示唆すべきである。しかし得てして自分の経験を勝手に普遍化して相談に答えそうになるので、注意せねばならない。
     教育相談を多数受けてみて相談には2種類ある、と思うようになった。1つ目は「生徒が実は相談前から答えを決めている」場合である。

    資料の原本内容

    ~教育相談と私の目標~
    自分は現在塾講師のバイトをしている。大学受験突破を目指す高校生をもっており、担当科目は数学である。正規社員とは違うとはいえ、生徒の目から見ればやはり「先生」であり、その点では社員と同等の責任を負っていると自分に言い聞かせている。塾の教師をやっていると、「教育相談」を受けることが多い。だいたいは担当科目である数学についての伸び悩みであるが、部活を続けるべきか、習い事を続けるべきかといった生活面での相談から、志望校、ひいては将来についてまで幅広い相談を受ける。
    自分はそういった様々な相談に対してよくある過ちを犯しそうになる。それは自分と生徒とでは周りの環境が全く違うということを考えない、という過ちである。自分は関西の灘という学校に通っていたのだが、そこは関西トップの進学校であり、学校の授業を真面目に聞いていれば東大・京大といった有名校にすんなりと合格することができる。したがって、時間的余裕がわりとあり自分は部活動を高3まで続けることが出来た。その結果得たものは大きく、自分の中に「続けることは本当に大切」というある種信念のようなものが芽生えている。従って生徒から「部活動を高3まで続けるべきでしょうか?」と聞かれると、ついつい即答で「続けたほうがよい」と言ってしまいそうになる。しかし、その生徒の状況は自分のそれとは異なっていることに留意しなければならない。生徒は本当に現役合格を切望しており、そのために必要な時間を部活動が圧迫してしまうのであれば、「やめた方がいいのではないか?」と示唆すべきである。しかし得てして自分の経験を勝手に普遍化して相談に答えそうになるので、注意せねばならない。
     教育相談を多数受けてみて相談には2種類ある、と思うようになった。1つ目は「生徒が実は相談前から答えを決めている」場合である。時刻において厳密には「正午」という瞬間は存在しなく、必ず午前か午後に二分できるのと同様に、生徒の心の中も必ずどちらかに傾いていて、結論はすでに出ている場合多い。言い換えれば、無意識的にせよ意識的にせよ、決断したい選択肢はすでにあるのでそれを後押しして欲しくて相談に来ることがある、ということである。その場合は対応の仕方も楽で、生徒の話をよく聞き、生徒の選択しようとしている案が自分の見解からも妥当であれば後押しするだけでよい。経験上、妥当でないことはほとんどない。というのも、一見して妥当でないような案と迷うことはなかなかなく、あるとしたらそれはその案に対して並々ならぬ魅力を感じているときであり、それはもはや相談という形では話題にのぼらないしからである。
     もう1種類は、「生徒が本当に悩んでいる」場合である。新しい情報を得るたびに振り子のように、原点付近を行ったり来たりしている場合がある。昨日はYes、今日はNo,明日はどうでしょう?といった具合だ。このケースはたいていの場合、生徒が情報不足であることが多い。その場合まずこちらで調べられる情報を全て提供し、また生徒にも自分でも調べるように指導する。後日、ほぼ完全に集めた情報をもとに相談を再び受けるのであるが、このときに自分は表を用いる。生徒が新しく得た多くの情報を消化しきれていない場合が多いからである。一つ一つの情報ごとに生徒の思いを踏まえたうえで表にまとめていく。その作業をしているうちに自然と方向性は決まって来る。
    どちらの場合も、いやむしろ教育相談の枠を越え「相談」を受ける時全般における信念が自分にはある。それは「どのような選択にせよ、自分で考え抜いた結果選んだものであれば、それはきっと英断だ」というものだ。これは自分自身が悩んだときにふとでた言葉であるが、今でも愛用している。ひとつしか選べないから悩むのである。選んだ選択肢の結果しか自分たちにはわからず、選ばなかった方の選択肢の結果は誰も知ることはできない。ならば、自分の選んだ道を信じようというのがこの言葉の意味するところでる。開けなかった扉の先に何があるかなんて考えてもしょうがない、自分の手で開けた扉の先に続く道をしっかりと踏みしめ歩いていこう。クサイ言葉かもしれないが、相談を受けたときはたいていこの種のことを言う。大事なのは選んだ選択肢を信じること、そしてそのために自分でちゃんと考え抜くこと、だと切に思うからだ。
    最初に述べた過ちを犯さぬように注意すること、そしてこの信念を貫くこと、また、自身が貫くことでこの信念に自信を持つこと、それが自分の相談における目標となっている。

    コメント2件

    04gs105 購入
    体験談は貴重だ
    2006/04/26 15:36 (18年前)

    nayu0909 購入
    参考になった
    2007/06/17 9:13 (16年10ヶ月前)

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