鄭和と南海遠征

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     鄭和は明代初期の宦官で、かつ武将である。本名は馬、初名は三保で、雲南生まれのイスラム教徒だった。燕王、すなわち後の永楽帝につかえ、靖難の役が起こると燕王に従って軍功を立てたため、大いに燕王の信頼を得てその即位後の永楽二年(一四〇四)には内官監太監に抜擢され、鄭の姓を賜った。
     彼の仕えた永楽帝は対外政策に極めて精力的であり、南北に経略の手を伸ばした。その一環として海外諸国に対しても大いに積極主義を発揮した。即位後は相次いで各国に使者を送り、これによってもたらされた情報を元にして東南アジア、インド、西南アジアを含む諸国に対し、大規模ないわゆる南海遠征を派遣した。これによって諸外国に中国の力を示し、諸国の服属朝貢を促すとともに、活発な貿易を行わせようとしたのである。この遠征隊のリーダーに選ばれたのが鄭和であるが、彼が抜擢された理由は前述の、皇帝の信頼が篤かったということだけではなく、才識が任にふさわしいと認められ、また容姿が堂々としていたことや、彼がイスラム教を信仰しているため、訪問国の多数を占めるイスラム教国で受け入れられやすいと考えられたためでもあるだろう。
     彼の遠征は総計八回、一四〇五年から一四三三年まで続けられた。
     第一回目はチャンパーからジャワ、スマトラ、マラッカを経てセイロン、カリカットに至った。途中東ジャワで王位継承戦争、パレンバンで架橋等も区間の勢力争いにそれぞれ介入した。
     二回目は鄭和自身は不参加だったが、前回同様カリカット、コーチンまで行き、セイロンに碑を建てた。  
     三回目は前二回と同じコースをたどるが、途中シャム・ジャワの圧力に苦しんでいたマラッカを保護し、そこに鎮国の碑を立てる。またセイロンでは鄭和の暗殺を企てる国王アラガクコナーラの軍と戦い勝利した。

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    鄭和は明代初期の宦官で、かつ武将である。本名は馬、初名は三保で、雲南生まれのイスラム教徒だった。燕王、すなわち後の永楽帝につかえ、靖難の役が起こると燕王に従って軍功を立てたため、大いに燕王の信頼を得てその即位後の永楽二年(一四〇四)には内官監太監に抜擢され、鄭の姓を賜った。
    彼の仕えた永楽帝は対外政策に極めて精力的であり、南北に経略の手を伸ばした。その一環として海外諸国に対しても大いに積極主義を発揮した。即位後は相次いで各国に使者を送り、これによってもたらされた情報を元にして東南アジア、インド、西南アジアを含む諸国に対し、大規模ないわゆる南海遠征を派遣した。これによって諸外国に中国の力を示し、諸国の服属朝貢を促すとともに、活発な貿易を行わせようとしたのである。この遠征隊のリーダーに選ばれたのが鄭和であるが、彼が抜擢された理由は前述の、皇帝の信頼が篤かったということだけではなく、才識が任にふさわしいと認められ、また容姿が堂々としていたことや、彼がイスラム教を信仰しているため、訪問国の多数を占めるイスラム教国で受け入れられやすいと考えられたためでもあるだろう。
    彼の遠征は総計八回、一四〇五..

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