遊びと現実〜カイヨワの考察からみる現代の遊び

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    資料紹介

     遊びとは楽しむためのものである。しかし、現実社会には接待のため、など純粋に楽しむためだけでない遊びがある。ロジェ=カイヨワは『遊びと人間』の中で遊びと日常生活が交じり合うようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落するとしている。
     遊びは常に社会の影におびえる存在である。少なくとも日本の社会において遊びのための時間は限られている。遊びのために少ない時間を作ったにもかかわらず、急に仕事が入りその時間を失うことがある。現代の遊びは社会中心に考えられている。遊びは社会に従属しているものであり、遊びの世界に旅立ったものは社会という現実の世界に再び戻って来なければならない。このような社会中心の遊びの考え方は、遊びを重要視せず、遊びの社会的な影響を見落としがちにする傾向を生む。
     そもそも遊びとはどのように定義されるのか。カイヨワは次の六つの特性から遊びを定義している。自由な活動であること。隔離された(空間と時間の限定された)活動であること。未確定の活動であること。非生産的な活動であること。規則のある活動であること。虚構の活動であること。以上のような特性を持つのが純粋な遊びである、という。
     そのような定義からすると、遊びとは現実世界とはまったく異なった一種の空想や幻想ともいえる異質の世界内に存在しているように思える。そのような現実世界と異質の世界にある遊びのひとつに日本における遊園地が挙げられる。
     日本の遊園地(特にディズニーランドなど)では、その閉鎖性がとりわけ重要視される。遊園地はその中で、固有の物語に基づき、キャラクター、アトラクションを創り上げ、文字通り別世界を演じている。その中でも人気を博しているのがいわゆる絶叫マシーンである。日常生活では体験できないスピードや、空に投げ出されるような感覚に多くの人が魅了される。

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    遊びと現実~カイヨワの考察からみる現代の遊び
    遊びとは楽しむためのものである。しかし、現実社会には接待のため、など純粋に楽しむためだけでない遊びがある。ロジェ=カイヨワは『遊びと人間』の中で遊びと日常生活が交じり合うようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落するとしている。
    遊びは常に社会の影におびえる存在である。少なくとも日本の社会において遊びのための時間は限られている。遊びのために少ない時間を作ったにもかかわらず、急に仕事が入りその時間を失うことがある。現代の遊びは社会中心に考えられている。遊びは社会に従属しているものであり、遊びの世界に旅立ったものは社会という現実の世界に再び戻って来なければならない。このような社会中心の遊びの考え方は、遊びを重要視せず、遊びの社会的な影響を見落としがちにする傾向を生む。
    そもそも遊びとはどのように定義されるのか。カイヨワは次の六つの特性から遊びを定義している。自由な活動であること。隔離された(空間と時間の限定された)活動であること。未確定の活動であること。非生産的な活動であること。規則のある活動であること。虚構の活動であること。以上のような特性..

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