日露戦争以降太平洋戦争に至るまでのオーストラリアの対日政策について

会員540円 | 非会員648円
ダウンロード カートに入れる
ページ数3
閲覧数597
ダウンロード数1
履歴確認

    ファイル内検索

    資料紹介

     日露関係が悪化の一途をたどり、一触即発で戦争状態になるのではないかとの観測は、ロンドン発の外電を連日掲載していた新聞を通じて、逐一報道されていた。日露戦争は1904年2月8日に発生し、1905年5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が壊滅的被害を受け、9月5日にアメリカのポーツマスで講和条約が調印されて日本の勝利という形で幕を閉じたが、オーストラリアは戦略論と北海でおきたイギリスのトロール船が砲撃を受けたドッカー・バンク事件による反ロシア感情の裏返しから日本に熱いエールを送り、親日論が急速に台頭した。
     それをあらわすものが1902年に締結された第一次日英同盟だが、これはイギリスとオーストラリアの利益が一致したものだといえる。
     第一に、日英同盟は世界のバランスからみてイギリスと英帝国に利益をもたらすことである。南下するロシアをくい止める抑止効果をもつ点で、当時のバートン首相は「オーストラリア連邦にとってきわめて有益である」と全面賛成を展開した。また、同盟は「世界平和を保障する」ものであり、英帝国と日本の海軍力が「同盟によって相互に増強される」点で、オーストラリア防衛に多大な貢献をするとも述べている。
     第二に、オーストラリアが東アジア貿易を促進する上で、日英同盟は有利に作用するとの判断を示している。オーストラリアは当時、新しい貿易市場として日本と中国の将来性を期待しており、同盟条約の前文が中国と朝鮮半島における経済活動の機会均等を謳っている点に注目したわけである。

    資料の原本内容( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    日露戦争以降太平洋戦争に至るまでのオーストラリアの対日政策について
    1.親日論の台頭
     日露関係が悪化の一途をたどり、一触即発で戦争状態になるのではないかとの観測は、ロンドン発の外電を連日掲載していた新聞を通じて、逐一報道されていた。日露戦争は1904年2月8日に発生し、1905年5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が壊滅的被害を受け、9月5日にアメリカのポーツマスで講和条約が調印されて日本の勝利という形で幕を閉じたが、オーストラリアは戦略論と北海でおきたイギリスのトロール船が砲撃を受けたドッカー・バンク事件による反ロシア感情の裏返しから日本に熱いエールを送り、親日論が急速に台頭した。
     それをあらわすものが1902年に締結された第一次日英同盟だが、これはイギリスとオーストラリアの利益が一致したものだといえる。
     第一に、日英同盟は世界のバランスからみてイギリスと英帝国に利益をもたらすことである。南下するロシアをくい止める抑止効果をもつ点で、当時のバートン首相は「オーストラリア連邦にとってきわめて有益である」と全面賛成を展開した。また、同盟は「世界平和を保障する」ものであり、英帝国..

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。