学問言論レポート

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    1、商大の前身、小樽高商
    日本の工業化の進展が進みにつれ、それに対応する高等教育を受けた人材の必要性が高まった流れをうけて設立された。高商は、長崎と山口に設置されたあと、一万二千坪の敷地と建設費二〇万円の寄付という破格の条件を提示して設置された。
    小樽高商が独自の発展を築き上げたのは、初代校長渡辺龍聖の教育方針の成果であった。倫理学を専門とし教育行政に詳しいのでその手腕を買われた。
    小樽高商で渡辺が目指したことは、実務教育、つまり実学だった。語学教育の重視や外国人教師の積極的な登用(他高商が平均二人程度にとどまったのに対し、小樽では常に五、六人を擁していた)も、海外への飛躍も視野に入れた実践的な能力の獲得をめざしてのことであった。そして商業でより実際的な授業である商業実践や商品実験も開かれていた。
    渡辺は帝国大学と同じレベルの學力を養成するために今で言う詰め込み教育になってしまったが、それに耐え抜いた学生たちは貴重な人材として優遇された。また、学生をひとりの紳士として扱い、その自由な校風は緑丘スピリットともよばれた。
    第二代目の校長に就任したのは、民法を専門とし、長く次席教授の地位にあった伴房次郎である。この伴校長の時代を、第三代校長となる苫米地英俊が「篤学温厚、よく人を用いられたので学風は安定し、母校愛が強まり、同窓の友愛が湧き上がって来た」と回顧し、『緑丘五十年史』が「学園のルネサンス」と呼ぶように、大正デモクラシーの社会的気運にも照応して、教育・研究面でも実り豊かな成果を生みだしていった。
    伴校長の人格も反映して、学生たちは自由でのびのびとした雰囲気で緑丘生活を送った。
    授業では選択科目の幅が広がったり、指導教官制もはじまった。

    資料の原本内容( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    小樽商科大学、その繁栄の歴史
    1、商大の前身、小樽高商
     日本の工業化の進展が進みにつれ、それに対応する高等教育を受けた人材の必要性が高まった流れをうけて設立された。高商は、長崎と山口に設置されたあと、一万二千坪の敷地と建設費二〇万円の寄付という破格の条件を提示して設置された。
    小樽高商が独自の発展を築き上げたのは、初代校長渡辺龍聖の教育方針の成果であった。倫理学を専門とし教育行政に詳しいのでその手腕を買われた。
     小樽高商で渡辺が目指したことは、実務教育、つまり実学だった。語学教育の重視や外国人教師の積極的な登用(他高商が平均二人程度にとどまったのに対し、小樽では常に五、六人を擁していた)も、海外への飛躍も視野に入れた実践的な能力の獲得をめざしてのことであった。そして商業でより実際的な授業である商業実践や商品実験も開かれていた。
    渡辺は帝国大学と同じレベルの學力を養成するために今で言う詰め込み教育になってしまったが、それに耐え抜いた学生たちは貴重な人材として優遇された。また、学生をひとりの紳士として扱い、その自由な校風は緑丘スピリットともよばれた。
     第二代目の校長に就任したのは、民..

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