私が考える合理性前編

会員540円 | 非会員648円
ダウンロード カートに入れる
ページ数2
閲覧数220
ダウンロード数1
履歴確認

    ファイル内検索

    資料紹介

    考えるきっかけっていうのは、私自身が物凄く非合理な人間だからということ。
    人間、そして人間社会というのは非合理性がある程度内在しているもので、
    私自身のことを言えば、自分自身の「情念」を抑えきれない、つまり我慢というのが出来ない性格なのです。
    そんな私でも我慢をするというのが一応あります。それは社会的に許されない行為、他者の権利を侵害する行為は行わないということです。
    そりゃ當り前っちゃ当たり前ですね。でも上記の「社會的」というのが曲者で、そもそも社会を基準にすること自体果たして正しいのだろうか?ということが言えると思います。
    社会のあやふやな基準の上に個人の主觀が判断するわけで、結局のところ、個人に内在する道徳が基準となるわけだと考えます。
    個人に内在する道徳とは一体なんぞや?と考えると、もうわけわかりません。
    道徳とはそもそも絶對的なものなのか、相對的なものなのか、生まれつき内在されたものなのか、後天的なものなのか・・・道徳に就いてはこの辺にしときましょうか。
    私自身、非合理な人間だといいました。では、合理的とは一体なんなのでしょうか?
    実は、経済学者が特に用いる、合理的という言葉自体、定義があいまいなのです。
    一応定義附ければ個人の効用最大化でしょうか。

    資料の原本内容( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    私が考える合理性1
    考えるきっかけっていうのは、私自身が物凄く非合理な人間だからということ。 人間、そして人間社会というのは非合理性がある程度内在しているもので、 私自身のことを言えば、自分自身の「情念」を抑えきれない、つまり我慢というのが出来ない性格なのです。 そんな私でも我慢をするというのが一応あります。それは社会的に許されない行為、他者の権利を侵害する行為は行わないということです。 そりゃ當り前っちゃ当たり前ですね。でも上記の「社會的」というのが曲者で、そもそも社会を基準にすること自体果たして正しいのだろうか?ということが言えると思います。 社会のあやふやな基準の上に個人の主觀が判断する..

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。