社会心理学

閲覧数3,123
ダウンロード数58
履歴確認

    • ページ数 : 4ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    社会心理学は、私にとって大変興味のある分野である。人々の内面を主に対象にすることによって、社会のさまざまな現象の原因を読み解き、その解決策を模索してゆく。これは、人の存在を抜きにしては成り立たない、社会科学の中でも最も人間を集中的に研究している分野なのではないかと思う。今回のレポートの参考文献としては、『社会的ジレンマ〜「環境破壊」から「いじめ」まで』を読んだのだが、私が認識したことのなかった、「社会的ジレンマ」という概念を新しく学んだ。「社会的ジレンマ」とは、個人が自分の都合を優先させて行動すると社会全体の、そして長期的には個人の「暮らしやすさ」が下がってしまう状況を指す。それは日常生活の些細な出来事、さらには環境問題という人類にとって最大の課題とされる問題にまで、その原理が働いているということを知り、重要な概念なのだということを痛感した。
    本文の内容としては、まず社会的ジレンマがいかなるものかを紹介され、その具体例が示されている。次にそれが起こる、人間の内面(モチベーション)および外面(インセンティブ)への考察が行われ、人間の感情と、合理性の相互の関係が述べられている。

    資料の原本内容

    社会心理学
    参考書籍:社会的ジレンマ~「環境破壊」から「いじめ」まで
     社会心理学は、私にとって大変興味のある分野である。人々の内面を主に対象にすることによって、社会のさまざまな現象の原因を読み解き、その解決策を模索してゆく。これは、人の存在を抜きにしては成り立たない、社会科学の中でも最も人間を集中的に研究している分野なのではないかと思う。今回のレポートの参考文献としては、『社会的ジレンマ~「環境破壊」から「いじめ」まで』を読んだのだが、私が認識したことのなかった、「社会的ジレンマ」という概念を新しく学んだ。「社会的ジレンマ」とは、個人が自分の都合を優先させて行動すると社会全体の、そして長期的には個人の「暮らしやすさ」が下がってしまう状況を指す。それは日常生活の些細な出来事、さらには環境問題という人類にとって最大の課題とされる問題にまで、その原理が働いているということを知り、重要な概念なのだということを痛感した。
     本文の内容としては、まず社会的ジレンマがいかなるものかを紹介され、その具体例が示されている。次にそれが起こる、人間の内面(モチベーション)および外面(インセンティブ)への考察が行われ、人間の感情と、合理性の相互の関係が述べられている。そして、本当の賢さとは、合理的思考ではなく、人間の脳にもともと備わっている協力原理なのだということが述べられている。帰結として、まわりの人間がある行動を起こせば自らもその行動を起こしやすくなるという「みんなが原理」の有効性を訴え、それによって社会的ジレンマを解決してゆくために必要な環境やかしこさを示している。以下、私の考えを述べていこうと思う。
     まず私が非常に参考になると思った点は、人が行動を起こすときの原因として、二つの見方があるというものである。それは人間の内面から発する「モチベーション」と環境の側から発せられる「インセンティブ」である。これはイソップ物語の『北風と太陽』などの例を用いて説明されていたが、このことは私にとって全くの盲点であった。私は、人が行動を起こすときの原因をその人の内面、つまり心の変化に求めてしまう傾向がある。これは大抵の人々にも当てはまるのではないだろうか。しかし、実際はその心理的変化を起こす因子として、環境が大きな役割を果たしていることが多いのである。これは社会科学をしてゆく上で大切な視点だと思った。なぜなら、小さなものでも因果関係を読み誤れば、思考を進めてゆくうちにそれが大きな誤りとなってくるからである。原因の分析は冷静にそして、正確に行う必要があると思った。さらにこれは日常で生活してゆく上でも重要なことだと思う。
     次に強烈に印象に残ったものとしては、人が自発的に行っている行動に対して報酬を与えるようになると、その人は報酬をもらえない限りその行動をしたくなくなってしまうという傾向があるという事実である。本文内では、幼稚園児のお絵かきに対しての実験が例として持ち出されていたが、事実子供たちもお絵かきに対してご褒美が出たときには、次回からはお絵かきはしたくなくなる人数が半数にも上ったそうである。利害関係にそれほど執着することのない子供さえもその様な結果となるのであれば、我々はその傾向がさらに強くなっているのではないかと思う。筆者も遊びが仕事になるとその行為からは喜びを得られなくなると述べている。しかし、ここで私が疑問に思ったのは、歌手や芸術家、俳優など自らの才能を生かした職業に就いている人々は、自分の職業活動を自発的に行うのではなく、生活上の必要性のために行っているのだろうかという事である。その様な職は、やむを得ずしてその職についたという場合も少数はあるだろうが、多くは自らが好きな行為を自発的に行ってきた延長線上に存在するものだと思う。ここには筆者の言うものとは違う論理が働いているように思われる。それがどのようなものなのかということに私は非常に関心がある。
     筆者はこれを「アメとムチ」(人にある行動を起こさせるために報奨および罰則を設けるとそれを自発的にしようとは思わなくなってしまい、さらに強力な報奨、罰則が必要となり、ひいては共同体を破壊してしまうというもの。)の一つの例としてあげているわけだが、教育においてもこの「アメとムチ」の原理が働いていると考える。
    現在の日本の学生は得てして勉強が嫌いだ。なんとも矛盾に満ちたおかしな状況なのであるが、これが現状である。これは、学校へ行きたくても行けない時代や地域、または子供時代には異なっている。彼ら、彼女らは知識に対して非常に貪欲であり、様々なことを進んで学び、それを楽しんでいるのである。この二つの状況の間にある違いは、そこに強制および報奨が存在するかということだ。前者においては、まず義務教育によって一定程度の学力をつけることを強要される。そこで勉強することが義務となってしまい、それに対する意欲は消えてしまうのだ。そのような状態でさらに大学、専門学校へ進学するものにとっては、学校は就職のための単なる手段と化しているのである。だから、進んで勉強をしようとするよりも、いかに簡単に卒業資格が取れるかという方向へと思考が進む。一方、後者においてはそのような強制はなく、学問それの目的のために学問を行っているので楽しんで進んで勉強するのだ。しかし、だからといって現状では、義務教育を廃止するわけにはいかないことは明らかである。この問題を解決するために、「アメとムチ」以外の方法を考え出す必要がある。
     次に私が納得のいかなかった点を一つ述べたいと思う。筆者は社会的ジレンマの例として、すべての受験生がより良い大学への合格をめざして受験勉強というコストをより多く支払った結果は、全体としてみれば合格できる人数に変化がなく、ただ全体のコストが増えただけで、皆が他人を出し抜こうと行動したため、結局は受験のための準備が一層大変になってしまう、とのべている。私は、勉強時間がコストとしてマイナスイメージを持たせているところに納得がいかない。そもそも大学の受験は、より学力の高い生徒を集めるために行うものであって、そのために皆がより多く勉強するようになるのであれば大学側からしてみても願ったり叶ったりの状況なのではないかと考える。筆者の論理からすれば、皆で等しく勉強をしなければ、皆が同じだけ勉強したときと同じ結果が得られて、そちらのほうが楽だという風になる。これが実行されれば学生の学力低下は、今以上に激しくなるのではないかと思う。
     以上疑問を述べたわけだが、全体としてはとても読みやすく、私たちに問題提起をしてさらに考えさせてくれるような内容だった。これを社会心理学への足がかりとして、さらに文献を個人的に読んでいこうと思う。

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。