科挙制度

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    「科挙」
    1.科挙とは
    魏晋南北朝時代の国の一つ、魏の定めた九品官人法は門閥貴族の天下を可能にするという弊害を生んだ。それに九品中正法は不備が多く、しかも必要性に迫られて作られた法であり、いってみれば「過渡期」の人材登用制度である。
    隋の文帝が、その門閥貴族主義を支える土台となった九品官人法にかわって、試験による官吏登用制度(選挙制度)として始めた制度が科挙である。家柄や財産に関係なく、広く有能な人材を確保し高級官僚に登用しようとするもので、元代に240年ほど中断されたものの、清代末の1905年に廃止されるまで、約1300年間に渡って続けられた。
    科挙の科目や機構は時代によって変化し、隋代は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、科ごとに古典的教養・文才・政論などを試験した。郷試・会試の二段階であった。この選抜制度は以後着実に発展し、中国社会全体にはかりしれない影響をおよぼした。こうした先をみすえた体制づくりは、地方行政をめぐる改革のなかにもみることができる。すなわち長期にわたる分裂のなかで、機構が肥大化また細分化して、地方分権、反中央の温床ともなっていた州郡県制の現状にたいして、隋は郡を廃止して州県二段階制に改めた上で、地方官には中央吏部による任命制をとって、現地任用の辟召制を廃止、あわせてすでに辟召されていた地方官の有名無実化をはかった。また地方官の任期や、本籍地回避などの服務に関する厳格な規定を設けた。地方行政のあり方はここにその様相を一変し、中国地方行政史上最も大きな転機を画することになった。
    唐代の科挙も郷試・会試の二段階であった。会試(貢挙)には、四科が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる科目である。則天武后が権力を握ったころから本格化したといわれるが、しかしその一方で、家柄や親の官品に応じて子が任官できる資蔭と呼ばれる官僚採用法が依然重要な立身の途として残っており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。しかも科挙試の場合、中央礼部の試験に合格しても任官にはなお、「身」「言」「書」「判」の貴族的素養を試す関門にパスしなければならなかった。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官吏としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うたものであった。このように貴族主義的影響から脱しきれていなかった。
    ここから先は課題の条件には含まれない範囲であるが、科挙制度というものを把握するためにも前近代以降の科挙についても少し述べていく。
    宋代の始めには進士の一科となり、宗試(解試)・省試・殿試という3段階の試験制度が設けられ、科挙の制度が完成した。州試の合格者を挙人と呼び、省試によって合格し、さらに宮中での殿試に合格して進士となった。殿試とは、皇帝が試験官となって進士の成績序列を決め、これによって任官や将来の昇進が決定された。そのため、合格した進士達は、皇帝の恩義を感じて忠誠を誓い、独裁体制を補佐していった。
    選抜精度が最も複雑化したのは清代末期で、郷試に合格した挙人は挙人覆試の受験資格ができ、その試験に合格すると、会試を受け、合格した貢士は貢士覆試を受け、合格者は皇帝の面前での面接試験である

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    「科挙」
    1.科挙とは
    魏晋南北朝時代の国の一つ、魏の定めた九品官人法は門閥貴族の天下を可能にするという弊害を生んだ。それに九品中正法は不備が多く、しかも必要性に迫られて作られた法であり、いってみれば「過渡期」の人材登用制度である。
    隋の文帝が、その門閥貴族主義を支える土台となった九品官人法にかわって、試験による官吏登用制度(選挙制度)として始めた制度が科挙である。家柄や財産に関係なく、広く有能な人材を確保し高級官僚に登用しようとするもので、元代に240年ほど中断されたものの、清代末の1905年に廃止されるまで、約1300年間に渡って続けられた。
    科挙の科目や機構は時代によって変化し、隋代は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、科ごとに古典的教養・文才・政論などを試験した。郷試・会試の二段階であった。この選抜制度は以後着実に発展し、中国社会全体にはかりしれない影響をおよぼした。こうした先をみすえた体制づくりは、地方行政をめぐる改革のなかにもみることができる。すなわち長期にわたる分裂のなかで、機構が肥大化また細分化して、地方分権、反中央の温床ともなっていた州郡県制の現状にた..

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