『狐』に見る荷風「芸術論」と「迷信」

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    一 永井荷風と「藝術」 
    永井荷風は一八七九年(明治十二)、小石川金富町の地所家屋(1)に長男として、父久一郎と母恆の間に生まれ、壯吉と名付けられた。当時、父久一郎は内務省衛生局(2)に勤め、コレラの予防や衛生の管理などをしている、いわゆる「洋行歸り」(3)のエリートであった。その生活の様子は、
    「十畳の居間に椅子卓子を据ゑ、冬はストオブに石炭を焚きて居られたり。役所より歸宅の後は洋服の上衣を脱ぎ海老茶色のスモーキングジヤケツトに着換へ、英國風の大なるパイプを啣へて讀書して居られたり。・・・・予が家にては其頃既にテーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しゐたり。」(4)といったようなものであった。
    しかし、このように生活様式は西洋風であったものの、「精神生活は寧ろ東洋風」(5)であったようだ。何故なら、久一郎は「幼少より學を好み、十二三歳にして」漢詩を賦したという。また「弱冠にして名古屋に出で、藩儒鷲津毅堂の門生となり、儒学を修むる傍ら」漢詩をも学んでいたのである。このような事から、久一郎の基盤に東洋的思想が存在していると考えることは容易であろう。
    母恆もまた、久一郎の師である鷲津毅堂の次女であるため、当然儒家の思想を受け継いでいると考えられる。(6)有名なことであるが、芝居好き、長唄・琴にも堪能であり、荷風に芸術に関して多大な影響を与えたとされている。また、十七歳で嫁ぎ、十九歳で壯吉を生んでいるため、荷風にとって若く美しい人という印象が強いのか、荷風は母に只ならぬ好意を抱いていたようである。ただ、明治四十一年の帰朝時には「小さく萎びた見るかげもないお婆さんになつて仕舞ひました」(7)とその母親の変貌ぶりを書き記している。

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    『狐』に見る荷風「芸術論」と「迷信」
     
    一 永井荷風と「藝術」 
     永井荷風は一八七九年(明治十二)、小石川金富町の地所家屋(1)に長男として、父久一郎と母恆の間に生まれ、壯吉と名付けられた。当時、父久一郎は内務省衛生局(2)に勤め、コレラの予防や衛生の管理などをしている、いわゆる「洋行歸り」(3)のエリートであった。その生活の様子は、
    「十畳の居間に椅子卓子を据ゑ、冬はストオブに石炭を焚きて居られたり。役所より歸宅の後は洋服の上衣を脱ぎ海老茶色のスモーキングジヤケツトに着換へ、英國風の大なるパイプを啣へて讀書して居られたり。・・・・予が家にては其頃既にテーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しゐたり。」(4)
    といったようなものであった。
    しかし、このように生活様式は西洋風であったものの、「精神生活は寧ろ東洋風」(5)であったようだ。何故なら、久一郎は「幼少より學を好み、十二三歳にして」漢詩を賦したという。また「弱冠にして名古屋に出で、藩儒鷲津毅堂の門生となり、儒学を修むる傍ら」漢詩をも学んでいたのである。このような事から、久一郎の基盤に東洋的思想が存在していると考えること..

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