『ファッションの技法』と共同体

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    『ファッションの技法』と共同体
     要約
    まず、そもそもファッションにおいてその目的とは何であろうか。何のために人々は着飾るのであろうか。そして、われわれが着ている服、その衣服が表現しているものとはいったい何なのであろうか。そのとりあえずの答えの一つには、異性を惹きつけるから、という答えがある。異性を惹きつける、このことはジンメルの述べるコケットリー論にその具体的手法が示されている。それとはつまり、女の男に対する関係は承諾(イエス)と拒絶(ノー)に尽きる、というものであり、女がイエスとノーを同時に用いることによってその双方の間をゆれ動く、というものである。そして、イエスとノーの間でゆれ動くがゆえ、女は「誰か一人にイエスという選択のプロセスをできるだけひきのばして時間をかせぎ、そのかけひきを楽しむ」ことができ、男も男で、「男は獲得するのが困難な対象のほうが、たやすく手に入る対象よりも所有する満足感が大きい」ことから、最後のイエスを得るという決心の重さから開放されて、男と女がいるというそのこと自体を楽しむということにいたるのである。つまり、男女それぞれがその誘惑形式を遊戯として楽しむのだ。このイエスとノーを同時に言うというコケットリーの技法は、ファッションにも密接にかかわっている。ファッションは、自らを他人に対して見せるということを行い、それと同時に自らを隠すということを行う。着衣によって自分を隠しつつ、隠すことによって自分を見せるという、ファッションにおけるこの性格は、まさにコケットリーのようにイエス(見せる)とノー(隠す)という間をゆれ動く性格を持ち合わせているのである。
    シャネルによる女性たちの解放、コムデギャルソンによるアンチコケットリー、これらのデザイナーたちの革新的な動きを経て、現在では、何を着るのも自由でありコケットリーの外に出ることも自由、モードの外に出る自由さえ手に入れられるようになった。それにもかかわらず、誰もモードの外に出ようとはしない。なぜだろうか。こうした一連の動きから、そもそもの問いである、ファッションにおいてその目的とは何であろうか、という問いに立ち返ってみると、異性を誘惑するというだけではなく「外見」というものが人間の認知に深くかかわっている、ということがわかる。つまり、服装をとおして、自分を社会的に位置づけたいのだ。こういった動きの中で同一化願望と差異化願望が生まれてくる。つまり、他人よりも、遅れたくないという欲望や、はずれたくないという欲望、周囲からうくことのつらさから逃れたいという欲望のために、他人と同じでありたいと願い(同一化願望)、その一方で、人間は同じであることと正反対の欲望も持ち合わせている。その正反対の欲望こそが、他人と違っていたいという欲望だ(差異化願望)。人間は、これらの論理的にまったく矛盾する二つの欲望を共有しているのである。こうした動きは近代社会の成立に特徴付けられる。貴族社会のような社会的流動性が存在しない社会におけるファッションの固定性とは違い、身分社会の解体からデモクラシーが到来することによって、ファッションが広く大衆的に広がっていったのである。そうした中における個々の同一化願望と差異化願望という二つの感情の論理が一つになって、矛盾に満ち溢れた運動がモードを支えるようになったのだ。そして、モードは《今日》というものを特権化することによって、われわれのなかにある同一化願望と差異化願望を同時に満足させる。つまり、《今日》が変化するからこそ、それが固定化しない二度とかえらぬ個性的な輝きを放つ。こう

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    『ファッションの技法』と共同体
     要約
    まず、そもそもファッションにおいてその目的とは何であろうか。何のために人々は着飾るのであろうか。そして、われわれが着ている服、その衣服が表現しているものとはいったい何なのであろうか。そのとりあえずの答えの一つには、異性を惹きつけるから、という答えがある。異性を惹きつける、このことはジンメルの述べるコケットリー論にその具体的手法が示されている。それとはつまり、女の男に対する関係は承諾(イエス)と拒絶(ノー)に尽きる、というものであり、女がイエスとノーを同時に用いることによってその双方の間をゆれ動く、というものである。そして、イエスとノーの間でゆれ動くがゆえ、女は「誰か一人にイエスという選択のプロセスをできるだけひきのばして時間をかせぎ、そのかけひきを楽しむ」ことができ、男も男で、「男は獲得するのが困難な対象のほうが、たやすく手に入る対象よりも所有する満足感が大きい」ことから、最後のイエスを得るという決心の重さから開放されて、男と女がいるというそのこと自体を楽しむということにいたるのである。つまり、男女それぞれがその誘惑形式を遊戯として楽しむのだ。こ..

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