構築主義的な視点の意義と課題

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    テーマ:構築主義的な視点の意義と課題について
     構築主義的な視点とはどのようなものかを知るためには、構築主義がどのようなものであるかを知る必要がある。構築主義を理解するために大まかに分けると、①構築主義とは社会を知識の観点から検討しようという志向性をもつこと、②それらの知識は、人々の相互作用によってたえず構築され続けていることについて自覚的であること、③知識は広義の社会制度と結びついていると認識すること、の3つに分けることができる。
     ①の社会を知識の観点から検討しようという志向性とは、素朴な客観主義を否定することである。事実は行為者とは独立に存在するものでも、行為者がその事実を言語によってそのまま知覚できるわけでもない。言語は人間が知覚するさいの透明な媒体などではない。言語からなる知識こそが私たちの世界の現れを決定づけるのであり、言語なしにはわたしたちには何も知覚することができない。さまざまな言語的カテゴリーが存在し、それに伴う言説を実践するからこそわたしたちはそれらの観念が指し示す対象を認知し、作り出すことができる。たとえば、「バイセクシュアル」というカテゴリーを考えてみると、このカテゴリーは近代において作り出されたものである。これらの言語的カテゴリーの存在しない社会では、当の言語が指し示す対象は存在しないか、もしくは別に現れていたはずである。言い換えれば、そこに存在したのは「バイセクシュアル」という「人間」ではなく、単に異性・同性と性関係をもつという「慣習」であった。このような意味でわたしたちは言語の中に位置づけられており、その外部にでることはできない。
     次に②についてであるが、このような知識は個々の人々の頭の中に単独で存在しているのではない。日常生活において、あたかも「客観的事実」が存在するかのように感じられるのは、知識が人々の相互作用によって構築され続けてきたからであり、また今もそうされ続けているという知識の社会性による。黒インクのシミのついた紙の束に対して「本」という言語的カテゴリーを与える過程は、そのカテゴリーの適切な使用が他の人によっても知られているか、または了解可能である限りにおいてのみ妥当する。そのときにだけ、これは妄想や思い込みとして片付けられることなく、「本」という物質がこの世界に存在するという了解を許されている。わたしたちは常に他人との相互作用によって知識を確認し、またその知識を再生産し続けている。しかし重要なのは、知識はそのままの形で再生産されるのではないという点だ。わたしたちは社会的に共有された知識を単にインプットしたりアウトプットするだけの機械ではない。わたしたち行為者は状況に応じて、さまざまな知識のバリエーションのうち最もふさわしいものを引用してくる自由をもっている。もちろんそれは、まったく恣意的にという意味で自由ではない。「これは本です」。「いや、パンフレットだよ」。このやりとりに「携帯電話でしょ?」という意見が割り込んで同意が得られることは、冗談ならともかくおそらくはありえないだろう。また知識のバリエーションには、当然のこととして限界がある。この自由と制約があるために、知識は歴史的に変化することも、一定のあいだ主観性を保つこともできるのである。そのためある言葉を発した次の瞬間に、すでにその言葉の意味が変わってしまいコミュニケーションが不可能になるという、およそ気苦労な事態を考えなくともすむのだ。
     しかし③に、歴史的に変化するといっても知識が相互作用によって構築されていく限り、とこはそれほど簡単ではない。そ

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    テーマ:構築主義的な視点の意義と課題について
     構築主義的な視点とはどのようなものかを知るためには、構築主義がどのようなものであるかを知る必要がある。構築主義を理解するために大まかに分けると、①構築主義とは社会を知識の観点から検討しようという志向性をもつこと、②それらの知識は、人々の相互作用によってたえず構築され続けていることについて自覚的であること、③知識は広義の社会制度と結びついていると認識すること、の3つに分けることができる。
     ①の社会を知識の観点から検討しようという志向性とは、素朴な客観主義を否定することである。事実は行為者とは独立に存在するものでも、行為者がその事実を言語によってそのまま知覚できるわけでもない。言語は人間が知覚するさいの透明な媒体などではない。言語からなる知識こそが私たちの世界の現れを決定づけるのであり、言語なしにはわたしたちには何も知覚することができない。さまざまな言語的カテゴリーが存在し、それに伴う言説を実践するからこそわたしたちはそれらの観念が指し示す対象を認知し、作り出すことができる。たとえば、「バイセクシュアル」というカテゴリーを考えてみると、この..

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