教育課程

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    教育課程論
    1 江戸時代の教育課程
    江戸時代中期になり経済が発展してくると、商人や農民の間でも商売のための手紙のやり取りや田畑の仕事の記録、娯楽として読書が普及してきたため、読み書きの能力が求められるようになった。これらの要求に応じて子どもたちに教育を受けさせる機関として「寺子屋」が各地に生まれ、広まっていった。
    寺子屋は庶民を対象とした教育機関で、男子でも女子でも行きたい人は通うことができ、寺子屋に行くか否かは個人の任意によるものであった。寺子屋の教育目的は、生活していくうえで必要な読み書きの能力や数字の知識等を身につけることであり、教育内容は文字や数字の学習等、基本的には実学的なものであったと言われている。授業は今のような一斉授業の形式ではなく、生徒一人一人に応じて往来物や師匠によるお手本を用いて行う個人学習であり、その方法は授業というよりは、むしろ「受業」と呼ばれるべきもので子どもたちは師匠に与えられた課題をこなして初めて次の段階へ進むことができ、新しいことを習うことができた。この寺子屋に対して、江戸時代には「藩校」もあった。寺子屋が庶民を対象とした学びの場だったのに対し、藩校は家臣の子弟、男子のみに開かれた機関であり任意によるものではなく、ほぼ強制的なもので、家臣の子弟が家を継ぐ力を身につけることを目的として創設された。そこで教育されていた内容としては実務的な事務的能力を習得することよりも、上に立ち庶民に尊敬されるような人格を備えるために教養を身につけることに重点が置かれていた。子どもたちは理由や意味を説明されることなしに、理解することなしに中国古典である四書五経を何度も何度も読み覚え、「読書百遍意自通」と言われるような学習法を強いられていた。寺子屋とも共通している部分であるが、江戸時代の子どもたちは授業を受けるのではなく「とにかく覚える」そんな方法で学んでいたといえる。
    2 明治~昭和期の教育課程
    19世紀後半、欧米列強によるアジア植民地化が進む状況の中で開港をせまられた日本にとって国の統一・近代化、富国強兵制度を推し進めるための国民教育制度の確立は緊急を要する課題であった。1871(明治4)年に文部省が創設され、翌1872(明治5)年には「学制」が公布されて国民皆学の方針が維新政府によって示された。この「学制」は欧米先進国の教育制度をモデルとしたもので教育行政のシステムはフランスの中央集権的な公教育制度から、教育方法はアメリカの功利主義的思想からの影響を大きく受けていたといわれている。
    国民を忠良なる臣民から主権者に育て上げるために、教科書は絶対化され、与えられた教科書をいかに効率よく子どもたちに覚えさせるか。それが当時の教師の役割であった。一斉授業が始まったのも明治時代からで、これまでの手作り・手作業の授業から一転、規格化され、大量生産を行う教育工場のようになってしまった。1947年、日本国憲法が制定されてから学習指導要領が出される。より賢い主権者を育てるため、問題解決学習、自治活動、課外活動が取り入れられ、経験主義の教科内容が提案された。この学習指導要領においては「児童や青年の興味・自発性」が重視されていた。
    しかしその後、児童生徒の基礎学力の低下、青少年の非行、規律の低下などが問題となり、学校教育においても何らかの対応策が求められるようになった。そのため1958(昭和33)年の学習指導要領の改訂では道徳教育・基礎学力・科学技術教育に重点が置かれるようになった。共産主義に対する盾として、また高度経済成長を支えていけるような人材養成

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    教育課程論
    1 江戸時代の教育課程
    江戸時代中期になり経済が発展してくると、商人や農民の間でも商売のための手紙のやり取りや田畑の仕事の記録、娯楽として読書が普及してきたため、読み書きの能力が求められるようになった。これらの要求に応じて子どもたちに教育を受けさせる機関として「寺子屋」が各地に生まれ、広まっていった。
    寺子屋は庶民を対象とした教育機関で、男子でも女子でも行きたい人は通うことができ、寺子屋に行くか否かは個人の任意によるものであった。寺子屋の教育目的は、生活していくうえで必要な読み書きの能力や数字の知識等を身につけることであり、教育内容は文字や数字の学習等、基本的には実学的なものであったと言われている。授業は今のような一斉授業の形式ではなく、生徒一人一人に応じて往来物や師匠によるお手本を用いて行う個人学習であり、その方法は授業というよりは、むしろ「受業」と呼ばれるべきもので子どもたちは師匠に与えられた課題をこなして初めて次の段階へ進むことができ、新しいことを習うことができた。この寺子屋に対して、江戸時代には「藩校」もあった。寺子屋が庶民を対象とした学びの場だったのに対し、藩校は..

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