上野千鶴子編 『脱アイデンティティ』

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    上野千鶴子編 『脱アイデンティティ』
     「アイデンティティ」は賞味期限切れ、なのだろうか。本書のタイトルは、「日本人」として、「在日」として、「部落民」として、「ゲイ」として等々、インフレ的に遍在しているかのようにも見える「アイデンティティ」に対する、挑戦である。  日本においては「アイデンティティ」概念すら確立されておらず、「アイデンティティ」を脱する、というポストモダン的言説自体が、近代的自我が確立されていない日本の特殊な状況の反映である、という議論がある一方で、現代のそういった「アイデンティティ」に強迫されている状況こそを、冷静に分析の対象とすべきである、とする立場もある。こういった議論の枠組み自体は、新しいものではなく、1980年代から反復されてきたものである。しかし本書は、後者の立場にたちながら、現在の批評として、政治の側から人為的に飽和させられる「アイデンティティ」に対抗するものである。
     編者の上野は、この語を世に送り出したとされるエリック・エリクソンは、アイデンティティは統合されるべきもの、という方向性をもって送り出した、と指摘する。これに対し、言説行為を通じて事後的に主体がつくりだされるとするジュディス・バトラーや、マイノリティにアイデンティティを要求しているのはむしろ権力の側であるとするスチュアート・ホールを手がかりに、アイデンティティの統合を欠いても逸脱とされない生き方を、上野は肯定的にとらえる。そして、同一性の強迫から逃れる必要性を感じてきたのは、むしろ少数者の側である、と指摘する。  ここに全部をフォローすることはできないが、各論者について見てみると、マイノリティといわれるそれぞれの領域で、「アイデンティティ」概念がむしろ、現実の記述としても、さまざまな点で齟齬をきたしていることが指摘されている。    第一章の伊野真一による論文は、日本のゲイ・リブにおける「アイデンティティ概念に依拠しない記述、政治の方向性」を探るものである。日本において、「アイデンティティをもとにした運動」であったアカー(動くゲイとレズビアンの会)の活動について、生物学的にみて、生まれつき変えられないとされる「性的指向」を正当化することが差異を本質化し、性的指向の不変性という「自然」に同性愛者の定義やアイデンティティを構成させ、脱文脈化された「真理」を形成してきたと指摘する。
     これに対し、「オカマは差別語か」論争における、すこたん企画による「週刊金曜日」への抗議を題材に、「オカマ」の語がむしろ、男性ジェンダーから外れた男性を対象とするものであり、ゲイ・アイデンティティとは必ずしも連関性のない現象であったと見る。そして、アイデンティティの争いからカテゴリの争いへと視点を移行させた上で、プライドや快楽のための「自己執行的なカテゴリ」へ変化させる戦略を提示する。さらにはカミングアウトについても、アイデンティティをもつべし、という規範を共有できない者に対しては、それが抑圧的であることもありうると指摘した上で、アイデンティティ概念に拘束されない戦略を模索している。そして、ゲイというアイデンティティを承認してもらうことでなく、与えられたカテゴリという虚構を活用しながら、異性愛主義を脱構築することが、クィア理論の意義であるとする。
     第六章の鄭暎惠による論文は、済州島に起源をもつ在日コリアン三世としての、自らのアイデンティティ探しの軌跡を、批判的に検証している。鄭は、アイデンティティの根幹をなすのは記憶であり、表現によって発信者と受信者の関係性の中に蓄積される記

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    上野千鶴子編 『脱アイデンティティ』
     「アイデンティティ」は賞味期限切れ、なのだろうか。本書のタイトルは、「日本人」として、「在日」として、「部落民」として、「ゲイ」として等々、インフレ的に遍在しているかのようにも見える「アイデンティティ」に対する、挑戦である。  日本においては「アイデンティティ」概念すら確立されておらず、「アイデンティティ」を脱する、というポストモダン的言説自体が、近代的自我が確立されていない日本の特殊な状況の反映である、という議論がある一方で、現代のそういった「アイデンティティ」に強迫されている状況こそを、冷静に分析の対象とすべきである、とする立場もある。こういった議論の枠組み自体は、新しいものではなく、1980年代から反復されてきたものである。しかし本書は、後者の立場にたちながら、現在の批評として、政治の側から人為的に飽和させられる「アイデンティティ」に対抗するものである。
     編者の上野は、この語を世に送り出したとされるエリック・エリクソンは、アイデンティティは統合されるべきもの、という方向性をもって送り出した、と指摘する。これに対し、言説行為を通じて事後的に主体がつくりだされるとするジュディス・バトラーや、マイノリティにアイデンティティを要求しているのはむしろ権力の側であるとするスチュアート・ホールを手がかりに、アイデンティティの統合を欠いても逸脱とされない生き方を、上野は肯定的にとらえる。そして、同一性の強迫から逃れる必要性を感じてきたのは、むしろ少数者の側である、と指摘する。  ここに全部をフォローすることはできないが、各論者について見てみると、マイノリティといわれるそれぞれの領域で、「アイデンティティ」概念がむしろ、現実の記述としても、さまざまな点で齟齬をきたしていることが指摘されている。    第一章の伊野真一による論文は、日本のゲイ・リブにおける「アイデンティティ概念に依拠しない記述、政治の方向性」を探るものである。日本において、「アイデンティティをもとにした運動」であったアカー(動くゲイとレズビアンの会)の活動について、生物学的にみて、生まれつき変えられないとされる「性的指向」を正当化することが差異を本質化し、性的指向の不変性という「自然」に同性愛者の定義やアイデンティティを構成させ、脱文脈化された「真理」を形成してきたと指摘する。
     これに対し、「オカマは差別語か」論争における、すこたん企画による「週刊金曜日」への抗議を題材に、「オカマ」の語がむしろ、男性ジェンダーから外れた男性を対象とするものであり、ゲイ・アイデンティティとは必ずしも連関性のない現象であったと見る。そして、アイデンティティの争いからカテゴリの争いへと視点を移行させた上で、プライドや快楽のための「自己執行的なカテゴリ」へ変化させる戦略を提示する。さらにはカミングアウトについても、アイデンティティをもつべし、という規範を共有できない者に対しては、それが抑圧的であることもありうると指摘した上で、アイデンティティ概念に拘束されない戦略を模索している。そして、ゲイというアイデンティティを承認してもらうことでなく、与えられたカテゴリという虚構を活用しながら、異性愛主義を脱構築することが、クィア理論の意義であるとする。
     第六章の鄭暎惠による論文は、済州島に起源をもつ在日コリアン三世としての、自らのアイデンティティ探しの軌跡を、批判的に検証している。鄭は、アイデンティティの根幹をなすのは記憶であり、表現によって発信者と受信者の関係性の中に蓄積される記憶が、アイデンティティを形成する、という。そして、社会において承認された自己同一性であるアイデンティティについて、自己が意識する以前に、社会から構築された部分が、大きな位置を占めている、と指摘する。アイデンティティの政治を「暴く」ことは、その複合的なアイデンティティと向き合うことによってなされるとする。もっとも、再生手段を失った記憶についてはどうだろうか。筆者はある時期、植民地支配の言語である日本語を使用して自らのことを語らなければならないことによって、失語症に陥ったとのべている。一方で、朝鮮人としてのアイデンティティを獲得すると、日本語は否定されなければならないのか、との疑問ももつ。そして、朝鮮人とも日本人とも落ち着くことが困難になったという。ここで、エスニック・マイノリティにとってのアイデンティティは確立されるべきものか、逆にそこから解放されるべきものか、複合アイデンティティを認めることか、と問いを中断した上で、「記憶の政治」の敗者、言語化されなかったものの身体化されて疼き続ける記憶、それを表現するアートに注目する。
     第八章の千田有紀論文は、アイデンティティを私が何者かという感覚、ポジショナリティ(位置性)を他者との関係で自分がどのような者として立ち現われてくるかの感覚だと区別した上で、アイデンティティもまた単独で存立するものでなく、両者とも他者との関係に規定されているとする。そして、両者は行為者から見ても、構造的に見ても同一化されて見えてしまうことが多いが、差別が重層化している今日では、そのずれに着目する。そのうえで、従軍慰安婦問題において、「女」であるということと、「加害者であると同時に被害者である」ということの有機的な関連について論じる。そして、ポジショナリティを絶対視することなく、オープンな議論を重ねる必要性を説く。
     このように、本書は今日のいわゆるマイノリティをめぐる政治状況、アイデンティティという蛸壷への回帰を余儀なくされつつある政治に対して、大変刺激的な論考を提供している。  しかし、この本に不在なのは、性別(ジェンダー)のアイデンティティについての問題意識である。いや、伊野真一は性的指向とならんでジェンダーについて述べているし、千田有紀は分断を重ねられた結果、もはや一枚岩ではない「女性」のアイデンティティについて論じてはいる。しかし、性別のアイデンティティそのものについては、語られることはない。「ジェンダー・アイデンティティ」の語を送り出したマネーについて全く論じられていないだけでなく、ジェンダー・アイデンティティ概念がフェミニズムに及ぼした影響、フェミニズムにおけるアイデンティティの政治については、何ら語られていない。むしろ、「女性」(あるいは「男性」)というアイデンティティの存在と、それを基盤にした政治は、自明視されているように思える。そして他の場所、『バックラッシュ!』におけるインタビューで、上野は「ジェンダーフリー」概念に対するものとして、「女性」のアイデンティティを基盤とする政治に立ち返ろうとしている節すら見受けられる。上野のこの点については別の機会に論じることにするが、脱アイデンティティというテーマは、ジェンダーそのものについてもそのままあてはまるものである。
     たとえば私は、自分の性別を言い表すことについて、失語症に陥っている。「男」の言葉も、「女」の言葉も、他者のものである。ここで言葉とは、服装や身体そのものの形状などの、文化的に構築された表現すべてを含む。複合的なアイデンティティとしてのサード・ジェンダーを、社会的にアイデンティティとして認めれば済むのかといえば、そうではない。今は男の身体も女の身体もそこにはなく、中断された身体の疼きだけが、実在している。それを医療の手を借りて、安定したアイデンティティのもとに固定し、言葉を回復することが、フェミニストや性同一性障害のコミュニティを含めた社会制度の要求するところであるが、それをよしとしない私がいる。ではその「私」とは何なのか?。  さらには、私は男であるという位置性をもつことにより、被害者であると同時に、加害者でもある。何に対して、と問われれば、「女性」に対して、と即座に返答できるが、その「女性」とはなんだろうか? アイデンティティの神話が信じられている限り、その議論の場が、今ここで確保されているわけではない。今ここでそのことを論じるなら、ただ「多様性」という、なまあたたかい言葉のなかで、さらに言葉を奪われるだけだろう。  しかし、私はまだ、与えられたカテゴリを活用しながら、ジェンダーを脱構築するほど、洒落て器用な手を持ち合わせているわけではない。私は本書を読み終えて、無性に言葉が欲しくなったのだけれども。
    上野千鶴子編 『脱アイデンティティ』 勁草書房 (2005/12) ISBN-10: 4326653086
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/br006.htm

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