1-3アインシュタインの指針

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    アインシュタインの指針
    光速度一定は原理なのだからとりあえず受け入れて 行く末を見守りましょう。
    アインシュタインの指針
     アインシュタインが論文の中で言いたかった事を要約すれば次のようになる。
     「マックスウェルの方程式をいじって求めた結果を怪しまなくても、次の2つのことを認めるだけで同じ結果、すなわちローレンツ変換式が導ける。 だからこの二つを受け入れて、物理学を、特にガリレイ変換を見直してはいかがでしょう? 力学の法則もローレンツ変換に従うと考えるのです。」
     その二つというのは、
    光の速度は光源の速度に依らない「光速度不変の原理」
    どんな慣性系でも物理法則は同じ「相対性原理」
    ということである。
     宇宙はそういうものだと認めてあきらめましょう、という感じだ。 それに対する現在の物理学の態度は、「実際、実験結果が相対論の予言した通りになるのなら仕方がない。 二つくらいなら信じてみようか。」という具合である。
     「信じる」という言葉が科学的でないと思うかもしれない。 しかし、物理というのは「信じて試して、確認していく」という過程を取るという意味では宗教的なのだ。 それが個人レベルで起きるか、グループとして起きるかの違いくらいだろうか? 日本人は宗教に疎くて、宗教とは「信じて信じて錯覚してゆく」過程だと誤解している人が多いように思われるが、真の宗教というのはそういうものではないのだ。 偽の宗教に騙されないように。
    二つの原理の意味
     二つの原理がそれぞれ意味する内容について考えてみよう。
     まず、光速度不変の原理。 これは光源がどんな速度で動いていようとも、そこから発せられた光の速度は光源の影響を受けない、というものだ。 これは水面に出来る波を思い起こさせる。 その波が移動する物体が起こしたものだろうが、静止した物体から出たものだろうが、関係なしに同じ速度で伝わってゆく。 ここで大切なのは、他の慣性系については何も言っていないという事だ。
     次に、相対性原理。 これはどんな慣性系でも物理現象が同じ形式で書けるということである。 同じ一つの出来事を色んな相対速度の立場から観測した場合、それぞれが得る値は当然違うだろうが、それは全く構わない。 この原理は同じ出来事が誰からも同じように見えなければならないとは言っていないのである。
     観測値がそれぞれの立場で異なっていてもいいというのなら、それぞれの立場で物理定数が違っていても構わないとまで言えるだろうか。 その通りである。 一体、観測値と物理定数の違いとは何だというのだろうか。 物理定数は観測値ではないか。 実に、それぞれの立場で観測する光速度が違っていたって構わない。  この原理はそこまで一致するべきだとは主張していないのだ。
     ところがこの原理には、「全ての慣性系は同等であるべし」という強い要求が含まれている。 つまり、たとえ全ての慣性系で同じ形の法則が成り立っていたとしても、その式の中に、どれか共通した特定の慣性系を基準にした位置や速度が含まれているようではいけないのである。 互いの慣性系の関係を表す式を書く場合には相対速度や相対位置に依存した量だけが使用を許されることになる。
     この要求から、もしある慣性系の中で定数と呼べるものがあり、それがどの慣性系でもやはり定数であるとするならば、その値は慣性系に依らずに同じでないといけないということが自動的に言えてしまうことになる。 光速度もその一つである。 これからそれを示そう。
    光速度は誰から見ても一定
     広く知れ渡っているように

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    アインシュタインの指針
    光速度一定は原理なのだからとりあえず受け入れて 行く末を見守りましょう。
    アインシュタインの指針
     アインシュタインが論文の中で言いたかった事を要約すれば次のようになる。
     「マックスウェルの方程式をいじって求めた結果を怪しまなくても、次の2つのことを認めるだけで同じ結果、すなわちローレンツ変換式が導ける。 だからこの二つを受け入れて、物理学を、特にガリレイ変換を見直してはいかがでしょう? 力学の法則もローレンツ変換に従うと考えるのです。」
     その二つというのは、
    光の速度は光源の速度に依らない「光速度不変の原理」
    どんな慣性系でも物理法則は同じ「相対性原理」
    ということである。
     宇宙はそういうものだと認めてあきらめましょう、という感じだ。 それに対する現在の物理学の態度は、「実際、実験結果が相対論の予言した通りになるのなら仕方がない。 二つくらいなら信じてみようか。」という具合である。
     「信じる」という言葉が科学的でないと思うかもしれない。 しかし、物理というのは「信じて試して、確認していく」という過程を取るという意味では宗教的なのだ。 それが個人..

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