連関資料 :: 人権(同和)教育

資料:242件

  • 人権同和教育
  • 設 題 戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。  ⇒〔戦後の同和教育史〕  戦後の同和教育施策は、同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学の解消に向けた取り組みから始まった。「オールロマンス差別事件糾弾要綱」では、教師が部落の児童をさべつすることもある、不就学児童の問題に市は無関心である、といったことが述べられた。当時の同和地区児童・生徒の長欠・不就学率はかなり高く、同和教育創成期における最も重要で緊急な教育課題とされた。 この解消に向け、京都市では同和教育費が導入され、就学奨励事業が始まった。また、教員の有志によって学習に遅れが見られる同和地区児童・生徒に対し、補習学級が実施されることになった。  しかし、高校への進学率はきわめて低く、長欠・不就学の解消の次に、学力・進学保障の取り組みへと進んでいった。すると、同和地区児童・生徒の低学力という課題が浮かびあがってきた。 1964年、同和地区生徒の高校進学率を引き上げるための「進学促進ホール」が開設された。ここで全市の同和地区生徒は夜間登校し、高校入学試験合格のための学
  • 教育 通信 人権 同和
  • 550 販売中 2008/09/03
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  • 人権(同和)教育
  • 『同和教育の意義・歴史を概括し、学校における同和 (人権)教育実践の具体的なあり方について述べなさい。』 【同和教育の意義】 同和教育とは、同和問題を解決するための教育の営みの総称である。同和問題を大枠として、部落差別問題として定義すると、同和教育は部落差別を無くすための全ての教育活動と定義することが出来る。 また、同和教育は単なる一社会問題としてのみではなく、人権教育と「差別を許さない」という共通基盤を持つものである。 【同和教育の歴史】 1:同和教育の始まり  戦後の同和教育は、同和地区児童・生徒の長欠・腐臭学の解消に向けた就学奨励事業から始まった。 1952年、オールロマンス差別事件糾弾要項の「差別は市政の中に」で、同和地区児童・生徒の「不就学児童を無くする対策を即時たてること」を同和教育行政における最重要課題と位置づけた。この糾弾闘争をうけて京都市は「今後の同和施策運営要領」を策定し、これにもとづいて戦後初めての同和教育費200万円が52年度予算として計上された。また、同和教育費は、その後も年々増加されるようになった。 2:高校進学率向上への取組  60年代に入り、同和地区と京都市の生徒間で高校進学率に約40ポイントの格差があったため、京都市の同和教育は長欠・不就学の取組から学力・進路保障への取組へと変化していった。  1964年、京都市は「教育の分野において、それぞれの公務員がその主体性と責任で同和地区児童・生徒の学力向上を至上目標とした実践活動を推進する」という同和教育目標を策定する。その後、進学促進ホール・補修学級・学習センター設置などの試みにより、1997年には京都全市と同和地区間の高校進学率はほぼ比肩するものとなった。 【学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方】 1:矮小化・限定化を避ける  同和(人権)教育は、特別な教育活動として矮小化される傾向がある。差別・人権問題が、被差別者の問題すなわち学習者にとって他人事・他の世界の問題として理解・認識されていることが多い。  学習指導要領改訂により「生きる力」の修得を重要とする中、これらの社会問題を学習者がそれぞれ社会の一員(当事者)であることを自覚して学ぶ必要があり、教育者は学習者にそれを認識させるカリキュラム編成を行わなければならない。  例を挙げるならば、外国の一部に見られる日本人(アジア人)に対しての差別を学習対象とすることである。近年、日本は外国人の数が増えたとはいえ、欧米ほどの他民族国家ではないため、学習者(ここでは日本国籍とする)が人種による差別を受けることは稀である。  しかしながら、海外において日本人が差別を受けることは決して珍しいものではない。教師(この場合筆者)は、日本で生まれ育ったごく普通の日本人ではあるが、親類にシンガポール人がいるため、シンガポールに渡った際、昭南島を例に挙げてその残虐性を持つ民族であると一種の差別を受けたことがある。  この経験を題材として、学習者にディスカッションや研究活動を行わせる場合には、学習者自身も同様の経験をする可能性があることを明確に示して行う。 2:総合的な学習として取り扱う  前項で述べた教師の例は、単なる人権問題としてのみ取り扱う題材ではない。人権(同和)問題は歴史的背景をふまえた上での学習が必須であるといえる。  そのため、人権問題は歴史(日本史・世界史)と統合した形での学習体制を準備しなければならない。逆に言えば、歴史の授業の中に取り込んだ形での学習であれば、突然人権教育の授業を受講するよりも、理解しやすい
  • 日本 差別 問題 生きる力 同和 都市 授業 高校 生徒 民族
  • 550 販売中 2007/11/23
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  • 人権同和教育
  • 50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践のあり方を具体的に論述すること。 はじめに  同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の人たちが、経済的、社会的、文化的に低位の状態におかれ、現代社会において、なお著しく基本的人権を侵害され、特に、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を保障されていないという、もっとも深刻にして重要な社会問題である。 部落差別を受けていた人は、子どもたちに十分な教育を受けさせることが出来ず、「貧困」「劣悪な環境」から抜け出せない「差別の悪循環」の中にいた。封建的な差別意識をなくし、すべての国民が憲法で保障された平和
  • 歴史 日本 人権 小学校 学校 子ども 社会 問題 同和
  • 550 販売中 2010/11/24
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  • 人権同和教育
  • 『50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ。』  1945年、太陽戦争に敗れた日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもとに平和で民主的な国家の建設に向けて歩み出した。そして、1947年5月に「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」を三大原則とした日本国憲法が施行された。特に、第14条では「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と謳われており、「社会的身分」という文言によって、政府は被差別部落の人々が差別されないという理念を明文化した。  戦前は被差別部落の人々が「社会的な排除」を受け続けることを克服すべき課題として取り上げられない社会であった。それがこの条項で「社会的関係において」も差別されないと言及されたことは、戦後の民主化がもたらした大きな成果といえる。  次に、具体的な部落解放運動の動きについて見ていく。 戦後、部落問題が解決しない中、まず部落解放運動の大きな転機となったのが、1951年10月
  • 人権 同和 レポート 教育 佛教大学
  • 550 販売中 2008/10/27
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  • 人権同和教育
  • 50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和 (人権)教育の意義と学校における同和(人権) 教育実践の具体的なあり方を論述せよ。 はじめに  「『同和教育』は、同和問題を解決するための教育の営みの総称である。」といわれている。戦後、同和問題を解決するため「部落開放運動」「同和行政」「同和教育」がお互いに密接に関連しながら、総合的に取り組まれてきた結果、同和問題の解決に向けた一定の成果が生まれてきた。これらの前提に立って、このレポートでは「同和問題の解決に果たす教育の役割」について述べていきたい。 戦後の同和教育史  戦後の同和教育史について、テキスト(P14以降)を 参考に、京都市における取り組みに焦点をあて以下にまとめる。  戦後少し見えにくくなっていた部策差別の現実が1951年京都市のオールロマンス事件により、明るみに出ると、同和問題に対する行政の責任が厳しく問われ、同和教育も大きく転換を求められた。オールロマンス事件当時の同和地区児童・生徒の長期欠席・不就学の割合は京都市の10倍という高率であり、同和地区における長欠・不就学問題は1950年代もっとも重要にして、緊急な教育課題であっ
  • 佛教大学 レポート 人権(同和)教育
  • 550 販売中 2009/05/28
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