連関資料 :: 教育論レジュメ

資料:3件

  • 教育レジュメオーストリア
  • オーストリア―犠牲者神話への取り組み イェルク・ハイダーと自由党  2000年2月19日、ウィーンで自由党の政権入りに抗議するデモが行われた。野党政治家や近隣諸国から来た知識人も演壇に立ち、市民とともに平和裡に、しかし明確な言葉で、黒青政権に退陣を迫った。  彼らが反対の声をあげ、世界がウィーンに注目したのは当然と言える。自由党を率いるハイダーは、元ナチス親衛隊の集会で称賛するなど、ナチズムを美化・正当化する発言を重ねてきた。彼自身は、「自分はナチではない」と繰り返し反論しており、戦後生まれでありそれは自明だが、それでもナチスを評価したいという気持ちをどこかに持っている様子は、充分に見てとれる。  また、ハイダーひとりが問題というわけではない。黒青政権が誕生する直前に欧州評議会に提出された報告書のなかでは、オーストリア自由党も人種主義的で排外主義的な要素を持つ政党としてリストアップされている。その指摘の正しさは、オーストリアのヨーロッパ政策学会が行ったアンケート調査でも証明された。それによれば、あからさまな反ユダヤ主義の意見に賛成した人々の割合は、全国平均では13%なのに対し、政党支持者別に見るとき、自由党支持者では51%にものぼる。実際には、戦後オーストリアのユダヤ系市民の割合はそれほど高くなく、さらにヨーロッパ最高レベルの豊かさを享受しているので、アンケートの数字をもって、いまナチズムやホロコーストの脅威を論じるのが妥当とは思われない。また、1999年の選挙で自由党が躍進した原因は、むしろ長期連立政権が抱えていた諸問題にあり、ハイダーの歴史認識にあるわけではない。  とはいうものの、自由党支持者にナチズムへの批判・反省の意識が希薄であるのは確実である。この歴史認識の欠陥は、外国人排斥や社会的弱者の人権軽視のような今日的な問題と密接に結びつくことにもなる。  さらに、問題は自由党一党にとどまるものでもない。国民党が自由党との連立を選んだときに、オーストリア国民の多数はハイダーと大差のない歴史認識しか持っていないというメッセージを、世界に向けて発してしまった。連立の決定は必ずしも国民党に票を投じた人々の意思を正確に反映するものではない。  しかし、黒青政権に対する抗議運動の中心をなしたのは、野党活動家や芸術家、学生などに代表される進歩派の人びとである。保守派の大多数は、現状を追認してしまった。なぜオーストリアでは、ドイツに比べナチズムとの対決姿勢が弱いのか。この疑問について考えるとき、戦前戦後の歴史的経緯、そして第二次世界大戦の戦勝国の姿勢に目を向けなければいけない。 第二共和国と犠牲者神話  戦後オーストリアは、第二共和国と呼ばれる。オーストリアという国家は、第一次世界大戦の敗北により誕生し、1938年にナチス・ドイツに併合されることにより一度は消滅した。この20年ほどの経験が、戦後再建された第二共和国の性格に影響を与えていると考えられる。  第一共和国を特徴づけるのは、社会主義勢力とカトリック勢力との対立と、国民のあいだのオーストリア意識の欠如だった。このうち前者は、世界に共通した現象ともいえるが、オーストリアの場合、内戦にまで発展してしまった。最終的には非民主主義的な体制が、共和制に終止符を打った。  いっぽう、後者はドイツ語文化圏のオーストリアならではの問題である。ハプスブルク帝国の崩壊は、スラブ諸民族やハンガリーの人びとがそこから独立していく過程でもあったが、そのとき、取り残されたドイツ語を話す人びとは、必ずしも「オ
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  • 教育レジュメドイツ
  • ドイツ―過去の克服を越えて 反ナチ国家ドイツ  2000年11月9日、右翼急進主義と対決するデモンストレーションのため20万人の市民が集まり、大統領や多くの著名人が参加した。この日はドイツ各地で反右翼デモが行われたが、その背景として、右翼急進主義者が外国人を襲撃するなどの事件が、夏から連日メディアを賑わせていたという事情がある。こうしたなか、連邦政府は、右翼急進主義政党の禁止を連邦憲法裁判所に申請するにいたった。いくら非民主主義だといっても、一つの政党を法律的措置によって禁止するというのは、それ自体が非民主的なように思えるが、民主主義にとって本質的な脅威となる政治勢力には政治活動を認めないというのが、ナチズムへの反省の上に立つ戦後ドイツという国家の基礎にある考えである。  自由で民主主義的な社会を維持・発展させるためには、ひとりひとりがそれにふさわしい価値観・思考方法を身につける必要があり、その点で教育が重要な意味を持っているのは、戦後ドイツを建設した人びとも良く理解していた。1952年には、「ドイツ国民の民主主義思想とヨーロッパ思想を堅固なものとし、それを広める」ことを目標に、連邦政治教育センターが設立され、60年代に入るころから、学校の内外で行われる政治的啓蒙活動としてナチスの過去についての教育を強化し、最近では右翼急進主義に象徴される外国人への敵愾心や暴力の除去を、その主要課題としている。  非民主主義政党の禁止といった措置や、政治教育センターの活動などの本当の性格はむしろ反共主義にあったとの見方もある。事実、連邦憲法裁判所は、共産党を禁止し、政治教育の場でも、ナチズムとスターリニズムを結びつけて批判することは珍しくない。  いわばドイツが冷戦を勝ち抜いた時点で、その国家のあり方を評価するには慎重さが要求される。徹底した姿勢にもかかわらず、雑誌の調査では「第三帝国についてはこれ以上何も知りたくない」との意見が45%を占め、こうした結果はドイツ国家の基礎にある民主主義理解の妥当性だけでなく、その有効性にも疑問を投げかける。  しかし、実際のドイツ社会を見れば、右翼急進主義犯罪の発生率は旧西部地域は旧東部地域の30%程度にとどまっている。この差は、経済状況の違いや、東側での急激な価値観の転換といった要因があると推測されるが、それらを差し引いても、これまでの社会制度や政治教育に一定の効果があったことは確かである。あるいは、そういう制度が今日まで機能し、また反ナチ教育が続けられてきたこと自体意味があると言って良いかもしれない。 国際歴史教科書対話の開始  ドイツは、反ナチズムを社会秩序の基礎に置いていたとはいうものの、歴史教科書を見る限り、それが目に見えるようになるのは60年代の後半。これは、政治教育の発展過程とも、ほぼ対応している。  一方、歴史教科書が長年にわたりナショナリズムを煽り続けてきたことが、ナチズムの一因になったという認識は、戦後ドイツに存在していた。ここから国際歴史教科書対話が開始されることになる。  国際歴史教科書対話は、複数の国の歴史研究者や教師が共通の議論の場を持ち、自国中心主義的な記述を指摘する作業を通して、客観的な歴史認識に到達しようとする試みである。こうした活動が飛躍的に発展したのは戦後で、ドイツがその中心地になった。  ドイツが多大な貢献をするようになった理由のひとつに、戦勝国による占領という経験がある。西部地域を分割占領した三国は、ナチス時代の歴史教育、さらにはナチスを生んだヴァイマル時代の歴史教育にも問題があったと
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