日本国憲法と平和的生存権

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    資料の原本内容

    ○平和的生存権について
    日本国憲法前文第二段より、「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(中略)われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と、平和的生存権を定め、憲法第九条のみで構成される憲法第二章「戦争の放棄」より、日本国憲法の基本原理の一つである平和主義が定められている。
    これらは、民主主義の原則が貫かれていること、ルーズヴェルト大統領の「四つの自由」を具体化した大西洋憲章から、国際連盟や不戦条約、国連憲章へと発展していく過程で、人権と軍縮、戦争と平和について根本的な認識の変革があったこと意図している。そして前文では「国民」が主語となっており、「平和のうちに生存する」ことを、ただ戦争がない状態が「平和のうちに生存する」ことではなく、「恐怖と欠乏から免れ」となっている。平和の前提には、自由と豊かに生きる権利、平等に生きる権利が確固としてある。そのため、日本国憲法において平和的生存権は憲法第九条・第十三条を不可欠なものとされている。
     このように、前文の「平和的生存権」の直接的起源は、国際的・国内的次元にまたがり、世界・人類の視野において、普遍的な人間の最も基本的な権利の本質をもっている(人類普遍の自然法に基づく自然権的権利の本質を内包すること)。そして、人類普遍の自然権としての本質をもつ平和的生存権は、前文において明示的に確認宣言されているのみならず、わが国憲法においてその尊重保護を目的として、具体的保障手段においても徹底し、第九条において戦争を放棄し、軍備の不保持を規定することによって、戦争や軍備によって侵害・抑制されることのない平和に徹した基本的人権が保障されており(その総体を日本国憲法下の「平和的生存権」という)、かつ平和的統治機構が規定されているのであって、そのような平和憲法体制の「構造的基礎」となっている。
     今日、日本国憲法の保障するこのような「平和的生存権」は、「新しい人権」であるが、核時代の現実を直視して制定された憲法がその保障を遂行しようとしている人権であり、それを自覚的に取り出して発展させることは、憲法が要請しているところである。
     国際社会において個人ないし集団の人権・権利が、世界的スケールで、主権国家・政府による保護を超えて、国際組織及び国際法によってそれ自体として保障され、一定の実効性を持つようになったのは、第一次世界大戦後の、国際労働機関(ILO、1919年成立)をもって嚆矢とする。そして国際連合憲章は人権保障規定を含み、世界人権宣言の成立(1948年)、ヨーロッパ人権協定の締結(1950年署名、53年発効)、といった国際人権規約A・Bが最新・最重要の世界的国際人権保障条約である。なお、戦争法については、伝統的な人道的扱いの国際法のほか、ニュールンベルク裁判、東京裁判における「人道に対する罪」の違法化や、集団的殺害禁止条約(1948年成立、51年発効)などが重要である。
     国連総会議決にいう「平和に生きる固有の権利」は、各時代の戦争と軍拡に対する権利として観念され、宣言されている。しかしながら、国連憲章のもと、侵略戦争の否認と軍縮の要請はあるものの、自衛および制裁のための戦争と軍備とは是認され、現実には、自衛等の名による戦争と軍拡のため各国民が「平和に生きる権利」を侵害・圧迫されることが、義務ないし受忍されるべき制約とされている。
     日本国憲法の保障する「平和的生存権」は、侵略戦争の違法化と軍縮要請を、一切の戦争(交戦権)と軍備の廃止を目指し、軍事力と戦争による防衛ではなく、「総合的平和保障」手段によって、あらゆる戦争と軍備による破壊・侵害・圧迫から免れた「平和的生存権」の法的(裁判的)保障を徹底しようとしている。
     したがって、「生命権」と「平和に生きる権利」と「平和的生存権」は、言葉の厳密な意味での「固有の」自然権的人権である本質をひとしくしつつ、前者から後者に展開せざるを得ない論理と発展段階をたどることができる。しかしながら、現在の国連と将来のより完備された世界平和組織(戦争を廃止し、軍備縮小・撤廃を達成した)において保障される段階との大きな距離があるといわねばならない。そして日本国憲法はまず「平和的生存権」を一国だけでも確保しその実効例を示す(主観的権利の側面)とともに、国連を中心に軍縮と戦争の抑制によって人類的「平和に生きる権利」を、尊重保障する「社会」(客観的制度の建設)の準備を始めた「全世界の国民」との間の架け橋に努め、「平和的生存権」をひろく享受できるようにする世界平和秩序の建設のための責任(「平和国家的公共の福祉」。旧い「国防軍事的公共の福祉」を否認)を引き受けようとしていると解すべきであろう。
    以上から見て取れるように、国際レベルでは、平和と人権は互いに不可分なものとして結びつけて考えられているが、平和的生存権ないし平和への権利は、「権利」といっても、とりわけその個人的側面においては、生成途上の権利にすぎないのである。
     平和的生存権というのは、人類幾多の戦争による経験から生まれた基本権で、戦争観・平和観を一変させ、国家間の問題解決のために戦争に訴えることは違法であるという一般的な考え方を生み出し、戦争や軍隊のない状態で平和のうちに生存する権利を擁護する考え方は、国際社会においてもすぐに採用され、そして戦争のない状態で平和に生きること自体が、基本的な権利であるとする考え方が国連の場でも確認されている。これは、日本国憲法の平和的生存権が、世界的な人権思想を受けてわが国の戦争体験の上に築かれたものであることを示している。
     最初に述べたように、日本国憲法の前文第二段落において、戦争を忌む並々ならぬ決意と憲法制定に至った経緯とを切々とうたい、平和的生存権を明示している。これは「国家自らが平和主義を国家基本原理の一つとして掲げ、そしてまた、平和主義をとること以外に、全世界の諸国民の平和的生存権を確保する道はない、とする根本思想に由来するもの」(長沼訴訟第一審判決)である。
     また、憲法第九条も戦争放棄、戦力不保持により制度的に平和的生存権を保障し、さらに、憲法第十三条によっても、個人の尊厳に基づく(人権)平和的生存権が具体的に保障されている。これらのことから、平和的生存権は、憲法前文及び憲法第九条の非武装平和主義に則り、崇高な理想の実現を求める憲法の理念に合致した形で認められるべきであるが、平和的生存権が問題となったこれまでの具体的事件においては、憲法前文の裁判規範性の有無や、自衛隊の合憲性などが、議論の中心となっていた。憲法第九条に関する裁判所の姿勢は、下級審のわずかな例を除き、前文の裁判規範性については否定的で、また、憲法第九条の問題については統治行為の問題として憲法解釈を回避している。
     最後に「平和的生存権」とは、国家の戦争目的や軍事目的のために自由や人権を制限・侵害されない権利であり、さらには国家の戦争目的や軍事目的の行為をやめさせる権利であると考えられている。
    ・歴史的判例[長沼ナイキ基地訴訟―自衛隊“違憲”判決]
    この「長沼事件」は、本来、近代・現代日本の国民的経験に基づき、現代の絶滅的戦争とその手段の廃棄という「世界史的あるいは世紀的要請の実現の視野と意義」の考察を要する、憲法の平和主義の死命を制する事件であり、初めて「平和的生存権」という視点が判決で取り入れられている。
    1973年9月7日第一審判決。札幌地方裁判所にて、「平和的生存権」が明示的に承認され、長沼町馬追山の自衛隊ミサイル基地設置により周辺住民の「平和的生存権」が侵害される危険性を憲法訴訟としての「訴えの利益」、すなわち法的権利性があるものとして認められた。そして、実体的判断においても、自衛隊の国防・軍事目的のため国民の「平和的生存権」侵されてはならないとして自衛隊は違憲となった。しかし、1976年8月9日第二審判決。札幌高等裁判所にて、「原判決を取り消す。」として訴えを却下された。却下理由として、「平和的生存権」の裁判規範性を否認し、さらに、自衛隊(法)の合違憲性は「統治行為」のため司法判断は加えないとし、なおかつ、「極めて明白」に「侵略的」ではないため違憲ではないと、実質的憲法判断を付加した。その後、砂川での最高裁上告判決では「統治行為論」を援用して回避するという結果に終わる。
    参考文献(インターネット含む)
    樋口陽一『憲法入門』
    深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』
    法学館(伊藤塾塾長)伊藤真『日本国憲法の平和的生存権の今日的意義』(論文)

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