授業を受けて自分が関心を持ったのは

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    私が授業で関心を持ったのは宗教同士で対立している点です。ユダヤ教・キリスト教・イスラームでなぜ対立するのか。この3つは一神教で、一神教の宗教は世界でこの3つしかない。ユダヤ教もキリスト教もイスラームも原点は旧約聖書で同じはず。ユダヤ教からキリスト教が生まれて、そのあとでイスラームが生まれた。だから共通する部分が多くて、私は知れば知るほどなぜ共存できないのか不思議で仕方がない。
     そもそも宗教とは何なのか。インターネットで調べたら、「宗教とは一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、信念や信仰と結びついた個人の態度・活動・制度・信者の形成する社会などをあらわす」と書いてあった。神に対しての信仰というのが誰に聞いても宗教のイメージだと思う。日本では、「どの宗教を信仰していますか?」と聞かれても無宗教と答える人が多いと思う。私もそうだ。しかし、無宗教と答えるのにはわけがあると思う。クリスマスをしたと思えば元旦に初もうでに出かけたり、結婚式をキリスト教式でやっていると思えば大安とか気にしていたり、よく言われるがいろんな宗教行事なり文化なりがごちゃ混ぜにある。こんな日本に住んでいるから一神教の世界観がよく分からない。
     このレポートを書くにあたり、書店で宗教関連のコーナーで本を探しているときにたまたま目についた『イスラームへの誤解を超えて』という本を読んでみたいと思いこれを参考文献とすることにした。本の最初に狂信的ムスリムやイスラーム過激派が世界各地でイスラームに対する悪いイメージを人々の心に植え付けたことに疑問の余地はない。そして過激派のあまりの非道な行為によって、史上まれにみる人道主義的文明、科学的にも芸術的にも高度な文明がイスラームから生まれたという事実を忘れている者がいる。ということが書いてあり、私ははっとした。中東は四大文明の一つだし、芸術でも医療でも西洋文明に劣っていたりすることは何もない。なのにイスラームは悪いというイメージで、高校の世界史で習ったようなそんなことをすっかり忘れていた。ではなぜ悪いというイメージがついたのか。本にも書いてあるように、2001年9月11日の同時多発テロ以降だと思われる。ムスリムやその信念などに関しての膨大な資料や文献が発表されてきたが今までイスラームに対する見方に混乱を生じさせたことはなかった。しかし、テロ以降の混乱状態に油を注いでいるのは、膨大な数の文献やテレビであれこれコメントする人たちだ。(p3)私も筆者と同じ意見だ。イスラームに限ったことでもないが、テレビでコメントしている人たちはその分野のスペシャリストでもないのに適当にコメントする。その分野のスペシャリストにしてもテレビ局の報道したいように編集してしまうのでどっちにしろ偏見的な報道になる。しかも、テレビは影響力が大きいのに責任を持って発言しているようには思えないし、マスコミは世論を誘導する。こうして世界中でイスラームに対する偏見報道がされれば誰しもイスラームは過激で悪いのだという印象を持つ。
     では本当にイスラームは過激で平和を壊すような宗教なのか。本にはイスラームの教えの中で特に重要な道徳的価値観は何かの問いに対して、慈悲、思いやり、そして平和だ。なにしろ忠実なムスリムなら少なくとも1日に5回は祈りの中で唱える徳目だ。(p10)こう聞くとどこが過激なのか全く見当もつかない。むしろどの宗教とも変わらず平和を目的としている穏健な宗教だ。そして一節に「啓典の民よ、われわれとお前たちの間になんの差別もないみことばのところに来るがよい。われわれは神以外の者を崇めることなく、なにものをも神に併置することなく、また神をさしおいて、おたがいを主と呼ぶこともないからである。」この章句の前半でムスリムをはじめとしてキリスト教・ユダヤ教にみな同じ神を崇拝していると言い聞かせ、後半ではこの世界で共存するための原理(神の実存を認めるのであれば、お互いを支配しようとするべきではないこと)について書いている(p226)
     こう書いてあるようにやっぱり共存はできるものだと私は思う。キリスト教もユダヤ教も平和を求める宗教だと思うし、ほとんどの信者たちはそういう行為をしてきた。じゃあなぜ共存できていないのか。イスラームの中には穏健派と厳格派がいて、厳格主義者の世界観は極端な二分法で、ムスリムを善、そのほかの世界は悪という考え方になっている。ムスリムではないということが道徳的な誤りとされ、非ムスリムに対して常に優位な立場でいることが求められる。そして究極の目的はとにかくだれであろうと全世界をイスラームのもとに結集させることにある。言い換えれば、善のイスラームの陣営は悪の陣営を愛してはならない。善の陣営は悪の陣営を支配するか、善に変えるかのどちらかを選ぶしかない。(p222)と、言葉ではお互い共存しようと書いているが、人間のやることなので現実はイスラームの中でも大まかに言って二つに分裂している。イスラームがそうならキリスト教もユダヤ教も同じように穏健派と過激派がいるのだろう。そして過激派同士が対立して武力行使に出たりすると、相手を非難しまた武力行使にうってでる。これをまたマスコミが報道する。マスコミがよく説明もしないで武力行使というところだけ切り取って報道するので、何も知らない人たちはマスコミを鵜呑みにしてあの宗教は危ない過激な宗教だわと思う。そしてこの対立を利用して政治をしようとするところも出てくる。政治が絡むとさらにぐちゃぐちゃになって解決の糸口がつかめなくなる。
     この本では対立や誤解の一番の原因は「無知」だとしている。私もそう思う。しかし無知以上に無知に気づいていないことがさらに原因になると私は思う。筆者のエピソードで、アメリカで世界宗教自由委員会の委員に任命された時に、任命を祝福してくれた人たちもいたが反対に「ムスリムなんかになにができるんだ、平和活動なんてできるわけがない」なんて内容のことを言われたらしい。確かにムスリムにも過激派がいるが、たぶん非難した人たちは穏健派がどういう信仰をしているのか、どういう活動をしているのかしらないから文句を言っているのだと思う。しかも彼らは自分たちが無知なことにも気づいていない。国の上層部なんかになると、自分が無知だなんて思ってもいないと思うし、発言もころころ変えられないと思うから、自分の無知のせいで言った間違ったことのせいで国の方向性が変わってしまったり、大袈裟だが戦争に発展したり、なんてことにもなりかねない。だからみんなお互いを知ることが共存に近づく第一歩だと思う。
     以上のことから、共存にはまず自分が無知であると自覚すること、そして無知であると気付いたのなら、他を理解するために勉強をしてお互いの歴史・習慣・伝統などを理解する子ができれば、共存できると思う。せっかく親子兄弟の宗教なのに対立しあうなんて悲しすぎる。もし、対立なんか起きなければ死なずに済んだ命がたくさんある。何百年も対立してきたものが、すぐに仲良くなるなんてありえないが、一歩一歩歩み寄ってアメリカもイラクも中国もチベットも、もちろん日本とも友好的になれば、今世界が抱えているたくさんの問題を解決するのが早まるかもしれない。だからまずは食わず嫌いせずにお互いのことを理解しようという気持ちで歩み寄ってほしいと思う。ただ最後に、この世界がみんな多神教の世界だったらこんな宗教問題は起こらなかったのじゃないかとは思う。

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