【日本史概説・日本史概論】分冊1 0620 0621

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    問1.国司が受領とよばれるようになる前と後について述べたい。
    8世紀末より律令制の規制は徐々に崩れており、編戸された本籍地から離れる浪人も、国司子弟・王臣子孫の国内居住も進んでいった。そしてそれら王臣子孫も含めた有力農業経営者(当時の言葉で言うと「富豪の輩」、後には「大名田堵」)が台頭しはじめ、郡司とその官庁郡衙の機能が衰退していった。郡司がいなくなる訳ではないが、郡衙は消えた。
     朝廷はまだ律令制を堅持していこうとしたが、実際に国を経営する国司は、そういう現実の変化を無視出来なくなり、いわば実質律令制(律令国家)の規制緩和が地方からはじまり王朝国家へと移行していった。
     ここで「名」と「負名」という税の徴収方式について述べたい。口分田の崩壊から税の徴収が旧来の形ではうまく管理出来なくならなくなり、公田の一定範囲を「名」とし、その範囲の税の徴収をそのあたりの富豪層に請け負わせるというものであった。以上のことから「負名」とは「名田(みょうでん)徴税請負人」というような意味にあたる。建前は律令制度であるから田畑は私有地ではなくてお上のもの。地方においては国司が管理するものであるから、負名は..

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