『D坂の殺人事件』~内に隠れたユートピア~

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    資料紹介

    日本のミステリー小説の研究にあたり、江戸川乱歩の執筆した『D坂の殺人事件』という作品を題材として取り上げることにした。日本のミステリー小説とは、海外探偵小説が日本語に翻訳されて進出してきた明治・大正期のころ、日本の作家もその作風を追い求め、主に幻想的、奇怪物な作品を描いたというものである。これらは変格物と呼ばれ、外国探偵小説に見られるパズル的要素というものが当時の日本人作家の文章に欠けていたことと、探偵小説を題材とした雑誌は翻訳ものの短編ばかりが内役を占めていたこともあり、探偵雑誌が発刊されてもそれは断続的で散発的であった。
     大正期に入り日本の社会的水準が高まりつつあったとき、文学を読む者の中には知識欲を持った、またそういった小説を読むことを一種の娯楽であると考える読者も増えてきていた。そんなとき江戸川乱歩という作家が登場した。日本で初めての本格物探偵小説を世に輩出したのだ。

    資料の原本内容

       『D坂の殺人事件』~内に隠れたユートピア~
     今回私は日本のミステリー小説の研究にあたり、江戸川乱歩の執筆した『D坂の殺人事件』という作品を題材として取り上げることにした。日本のミステリー小説とは、海外探偵小説が日本語に翻訳されて進出してきた明治・大正期のころ、日本の作家もその作風を追い求め、主に幻想的、奇怪物な作品を描いたというものである。これらは変格物と呼ばれ、外国探偵小説に見られるパズル的要素というものが当時の日本人作家の文章に欠けていたことと、探偵小説を題材とした雑誌は翻訳ものの短編ばかりが内役を占めていたこともあり、探偵雑誌が発刊されてもそれは断続的で散発的であった。
     大正期に入り日本の社会的水準が高まりつつあったとき、文学を読む者の中には知識欲を持った、またそういった小説を読むことを一種の娯楽であると考える読者も増えてきていた。そんなとき江戸川乱歩という作家が登場した。日本で初めての本格物探偵小説を世に輩出したのだ。
     本作品が掲載された雑誌『新青年』は、いわゆる文芸雑誌ではなく、かといって当時の大衆作家が活躍した倶楽部雑誌とも異なる存在であった。インテリ向きの娯楽誌というよりはいまの中間小説誌というところかも知れないのだが、それとも違う特色があったようだ。日影丈吉氏は次のように語っている。
       「いうまでもなく、それは推理小説とその周辺の読物である。象徴派的文芸のあまりに象徴的でないのも、この読者階層の読物として歓迎されることができた。というよりも、こういう、ややハイブローな読者に喜ばれる個性的な、数多くない作家の書く読物が、時代が移るとともに、推理(探偵)小説という欧米で流行しだした新しいジャンルの周囲に鉄片が磁石に引かれるように集まり、ミステリー文芸として定着するようになった、と考えるのが着実な見方で、こういう傾向の裏付があってこそ、雑誌「新青年」も成功したのであろう。(『江戸川乱歩と耽美主義文学』より)」
    この傾向から窺うに、読者は本格物探偵小説を書く日本人作家を待ちわびていたに違いない。
    この『D坂の殺人事件』は、日本家屋の建築では難しいとされてきた“密室殺人”というジャンルの謎解き小説を書き上げたことで、発表当時も高く評価されている。また乱歩作品の特徴である「裏返しトリック」は本作品の構成の土台を担っており、作品中二つのトリックが存在すると私は考える。裏返しトリックは常に「意外性」を孕むものであることから、一つ目は海外探偵小説に影響を受けた「私」の考える推測(外面的、物質的)と、心理学上の連想診断にも関心を持っていた明智の推理考察(内面的、心理的)の二つの差異によって生じている。この事実を確認するため、作品を四つの段落に分けて「起承転結」とし、また各段落が読者へどのような効果を与えているかをまとめてみる。
    (上)事実
    第一段(三三頁 一行目~三九頁 十行目)
     作品が出版された当時、すでに普及していた冷やしコーヒーを登場させたり、実在する地名を伏せて取り上げることでリアリティや読者への馴染みやすさを覚えさせている。
    また物語の伏線となる語りかけや描写も散見できる。
     第二段(三九頁 十一行目~五二頁 二行目)
      古本屋の様子や奥の部屋の間取りを明細に描写し、目撃者や住人らの証言により、日本建築の長屋では困難とされてきた「密室殺人」が起こったということが明らかになる。またこの時点では、「私」も明智と同じ事件を連想していたようだ。
    (下)推理
     第三段(五二頁 三行目~六七頁 十一行目)
      「私」による推測が展開され、あらゆる証言をもとに犯人を割り出したが、明智の心理連想法を用いた推理により「私」は推測に失敗したことに気付く。
     第四段(六七頁 十二行目~七一頁 八行目)
      心理連想法で「ある変な事実」を聞き出した明智だったが、この結論に物質的証拠がないうえ、悪意のない犯罪であったことから警察に行きかねていた。しかし偶然にも犯人は自首する。
      段落ごとに分けてもわかるように、この作品は、当時海外のパズル的探偵小説と同等のものを求めていた日本の読者へ「日本家屋建築での密室殺人」を提供し、海外小説によくみられる「証言や現場状況による推理」を這わせたものである。後の明智の推理の「意外性」を引き立たせる要素としてひとつは心理学による犯人想定、もうひとつは物語上の内面的な部分として描かれるSM願望がある。
      乱歩自身の内面的な部分としては、もとより内在していたという犯罪的素質が動物的欲望をも掻き立てていたようで、探偵・推理小説の創作活動はそれらを放出できる唯一の手段であった。またそこから性的な要素を含む子宮願望、玩具愛好乃至ユートピア願望が生まれ、乱歩小説の根本ともなっている。『D坂の殺人事件』の作中では主人公の内面的な記述はほぼ削除されているが、作者自身の内面を垣間見るという点において至極それは表象されているのである。夢想と犯罪的素質を結びつけたもの、それらをさらに文学として高めていくため、乱歩は自身の作品ベースを知的浪漫文学の谷崎潤一郎や宇野浩二ら諸作家の文体に近づけたのであり、本格物探偵小説もひとつの文学たりうるものだと考えていたのだろう。
      作品中の繋ぎとして明智が展開する心理的推理は、海外探偵小説のジャンルにも見られたものである。これらをまとめると本作は「謎解き物」「犯罪心理学」「性的願望」の三つの観点から鳥瞰できるということになる。また先に述べた裏返しトリックの「意外性」に当たる二つの要素は、パズル的探偵小説を好んでいた読者へ、人間の内面を、心理学を通して推察するという「科学と文学の結合」を介したものであり、乱歩ならではの作風と言えるだろう。
      
    *参考文献*
      『回想の江戸川乱歩』㈱メタローグ/一九九四年 著/小林信彦 発行/今 裕子
    『私の江戸川乱歩体験』廣済堂出版/一九九五年 著/長谷部史親 発行/櫻井道弘
    『KAWADE夢ムック 文藝別冊 江戸川乱歩 誰もが憧れた少年探偵団』
    ㈱河出書房新社/二〇〇三年 編集人/西口徹 編集/尾形龍太郎 発行人/若森繁男
    『うつし世の乱歩――父・江戸川乱歩の憶い出』㈱河出書房新社/二〇〇六年
    著/平井隆太郎 編者/本多正一 発行者/若森繁男
    *引用文献*
    『新文芸読本 江戸川乱歩』㈱河出書房新社 初版/一九九二年 発行/清水 勝

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