佛教大学通信教育課程 2016年度対応 Z1118 教育相談の研究(中・高)

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    資料紹介

    佛教大学通信教育課程、教職課程の教職科目、Z1118教育相談の研究(中・高)のレポートです。A判定でした。リポート作成の参考にご利用ください。なお、所見は以下の通りです。

    テキストに沿って、丁寧にまとめられています。リポートの文字数も気に掛けて作成されるとより良いリポートになると思います。

    資料の原本内容

    学校における各種指導(教科指導、生徒指導、進路指導、特別活動等)と教育相談(学校カウンセリング)の関連について論じなさい。
    ●はじめに
     各種指導と教育相談の関連について述べる前に、カウンセリングの原理、そして、その原理を説明するために必要な、人の心の原理について説明する必要があるだろう。
     先にこれらを詳らかにしておく事は、各種指導と教育相談の関連の説明を容易にするのみならず、第1設題の留意点「成人対象の一般カウンセリングと比べて、学校カウンセリングの特色が分かるように、テキストの内容全体にわたってまとめること」に従うものでもある。ただし、それによって紙幅の問題が出てしまうであろう。
    ●心の原理、構造論
     まず、人の心の原理について述べる。
     テキストでは、人の心の原理を、三つの領域に分けた構造として示している。これは、エスターライヒの精神科医、ジークムント・フロイトが提唱した、古典的な解釈である。
     彼の構造論によれば、人の心は、イド 、自我、超自我の三つに分けられる。テキストには、この三つをきわめて簡素に説明した部分がある。私のような門外漢が下手に自分の言葉で書き直すよりも、これを引用した方が適切であろうと思われるため、以下に引用する。
    「たとえば、大学生が授業に出席するかしないかを決定する時の場合を考えてみよう。
     彼の心の中には、自分は絵大学生だから授業に出席しなければならないという気持ちがある。しかしもう一つの心には、今日はこんなに寒い日だから、わざわざ大学に行かなくても、家でこたつに入って暖かくして寝ていたいという気持ちもある。そこで彼は、この二つの気持ちの中で、どちらか一方、すなわち寒いけれどもがんばって大学に行こうと決心するか、暖かいこたつに入って授業を欠席するかを決定しなければならない。」
     この場合、当該大学生の心には三つの構造がある事が分かる。
     まず、「楽をしたい」「寒いのに大学なんか行きたくない」という本能的な欲求を求める心。これを、イドという。この心は基本的に快楽を求める、いわば快楽原則によってものを考える。
     一方で、「大学に行かなければ」「寒いのぐらい我慢しなければ」という、本来やるべき事、本来あるべき姿を求める心。これを、超自我という。
     そして、イドと超自我、両者を吟味して、最終的な決断を下す心。これが自我である。ここでいう自我は、一般名詞としての自我ではなく、あくまでフロイトの構造論における専門用語としての自我である。
     これら三つの心がバランスよく成長し、同等の大きさを保っている場合、人の心の健康は保たれる。先程の大学生の例であれば、普段は寒くても雨が降っていてもちゃんと大学に通うし、風邪をひいたり身内に不幸があったりすれば大学を休むのである。
     ところが、この三者は、常に安定して同じ大きさを保っているとは限らない。イドが大きくなりすぎたり、逆に超自我が大きくなりすぎたりして、アンバランスな状態になる場合もある。例えばイドが大きくなり過ぎれば、自分の快楽を激しく主張するため、自我はその要求に折れる場合が多くなる。よって、眠いから、寒いから、雨だから…その程度の事で、簡単に大学を休むようになるだろう。逆に超自我が大きくなり過ぎれば、大学に通うという事があまりにも絶対視されてしまい、風邪だろうが何だろうがとにかく大学へ行こうとしてしまうのである。
     フロイトは、この構造論というモデルを使って、神経症をはじめとする、人の心を原因とする症状を説明した訳である。
    ●カウンセリングの原理
     そもそも、カウンセリングには広義のカウンセリングと狭義のカウンセリングがある。
     広義のカウンセリングというのは、「なにか心の悩みを解決してくれたり、自分で解決できない問題に対して相談にのってもらえる」 と、カウンセリングを受ける側が考えるたりするようなものである。こういうものは、別に相手がプロの臨床心理士である必要はない。専門知識は必要ないのだ。事実、牧師や神父、それに僧侶といった人々は、古くからその役割を果たしてきた。現代の臨床心理士のような、専門知識がないのにも関わらず、である。現代においても、例えば部活や職場の先輩や上司、祖父母といった人々が、その役割を果たす場合がある。
     一方、狭義のカウンセリングには、臨床心理士、ないしはそれに準ずる専門知識がある程度必要になってくる。すなわち、「非社会的行動や反社会的行動、あるいは神経症(ノイローゼ)による悩み」 に対して行うそれは、その実行において、先程述べた心の三重構造が密接に関係してくる。そのため、専門知識もまた、必要になってくるのである。
     さて、狭義のカウンセリングが対象とする症状は、イド、自我、超自我のバランスが崩れているところに起因するというのが基本的な考え方である。このため、狭義のカウンセリングにおいては、そのバランスを是正するところに主眼が置かれる。
     実際の手法としては、大きく二つに分かれる。治療的カウンセリングと、発達援助的カウンセリングである。教育現場において使われるのは後者となる。
     と言うのは、治療的カウンセリングは、主に神経症の、大人に対して使うものなのだ。大人というのは、基本的に人格が完成してしまっており、そこから更に成長して心や人格が大きく変化するという事があまりない。そのため、「自我が小さすぎるから自我を大きくするように導こう」「イドが大きすぎるから超自我と自我の両方をもっと大きくしよう」という事ができないのだ。
     しかしながら、中学生や高校生といった教育現場におけるカウンセリングの対象者達は、心身共に発展途上にある。そのため、イド、自我、超自我のバランスが取れていないのは、正常な発達の途中経過であるとすら言えるのである。
     例えば、小学校中~高学年ぐらいの人間の心というのはたいてい、三者のバランスがとれている。ところが、そこから中学に差し掛かる頃になると、一気にイドが巨大化し、一時的に心のバランスが崩れてしまう。これは、それまで個体維持のみを主眼としてきたイドに、新たに種族保存という新しい要素が加わるからである。ゆえに心のバランスが崩れてしまうのだが、それを異常な状態とは言えない。むしろ、種族保存という要素をイドに加えないまま成長していく方が異常である。もちろん、心のバランスがある程度とれた状態で成長していくのが理想ではあるものの、実際のところ、人間の成長過程において、心の三者のバランスが崩れるのはありえる事である。最終的に、三要素のバランスがとれた人間に成長すればそれでよいのだ。
     であるからこそ、「たとえ子どもが神経症的な症状や問題行動を起こしたとしても、それは発達のある段階における一時的なものであり、三者の関係がバランスがとれることで解決する」 という考え方に立ち、「カウンセリングの目標は、この三者のアンバランスを修復することであり、あわせて症状や問題行動の改善」 をはかるのである。
    ●生徒に対する各種指導とカウンセリング
     さて、以上のように人の心の構造、及びそれを基にしたカウンセリングの原理についてみてきた。このカウンセリング(より正確には学校で行われる教育相談、即ち学校カウンセリング)と、学校における各種指導の関連を考える訳だが、まずは、日常における生徒指導との関連を例にとり、考察してみよう。
     日常における生徒指導とは、例えば遅刻した生徒に「遅刻しないようにしなさい」とか、宿題をしてこなかった生徒に「どうしてやらなかったのだ」というようなものである。この際、その生徒の心がバランスのとれたものであれば、対処はさして難しくない。
     例として、提出物を忘れた生徒を考えてみよう。
     提出物を、学級委員などが代理で集めて教員に渡す形式の場合、忘れたのは本当かどうか、事実確認の発問が必要になるだろう。提出物を教員自身が集める場合は、どうしたのか、なぜ提出できないのかと問い、忘れましたという答えを得る事になるだろう。
     そうすると、続いて「それがなぜ悪いのか」を説明し、生徒が自分の間違いを認め、改めるように求める事になる。その結果、生徒は提出物を忘れてごめんなさい、今度からは忘れないようきっちりやります、と答えてその場は終了する訳である。
     これを、テキスト第3章の図に当てはめると、以下の図になる。
     さて、先程も述べた通り、心のバランスがとれた生徒ならば、問題はさして難しくない。なぜなら、そういう生徒はイド(楽をしたいという欲求)、超自我(やるべきことはやらなければならない義務感)、自我(前二者を検討した上で現実に即した行動を決定する)がどれもバランスよく発達しているため、現実的で妥当な判断を下すからだ。そういう生徒であれば、提出物を忘れた理由は多くの場合、本当にうっかり忘れてしまったか、さもなければ、何らかのやむを得ない事情によるものである。もしサボタージュしてしまったのだとしても、それが悪い事であり本来許されないものだという認識があるから、教員の説教を素直に受け入れ、自分が悪かったのだと反省してくれる。そのため、この図においては常にYESが選択されたような形で、話が進むのである。
     ところが、心のバランスがとれていない生徒の場合は、必ずしもそうではない。そういう生徒は、例えば、「自分は悪くないと思っている」 場合がある。提出物を忘れたからと言って、そもそも何故提出物を出さねばならないのか、と思っている場合である。また、提出物を忘れる事が悪い事だと認識しているのに、敢えてしている場合もある。校内で堂々と喫煙する生徒などは、まさにこれである。悪...

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