現代宗教論

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    資料紹介

    資料の原本内容

    仏教について
    四諦、すなわち
    * 苦諦:苦という真理

    * 集諦:苦の原因という真理

    * 滅諦:苦の滅という真理

    * 道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
    ①苦諦

    苦諦(くたい)とは人生の厳かな真相、現実を示します。

    「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿です。

    このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説きます。

    四苦とは、生・老・病・死の4つです。

    これに、

    * 愛する対象と別れねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)

    * 憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)

    * 求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)

    * 最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)

    を加えて「八苦」と言います。

    非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ています。
    ②集諦

    集諦(じったい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言います。

    集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれます。

    「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのです。

    この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、 次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味します。

    その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できます。

    苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としています。
    そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいいます。

    これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいいます。

    さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起です。

    この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示しています。

    十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になります。

    12個集まってそれ全体が苦なのです。

    だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦です。
    ③滅諦

    滅諦(めったい)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、 いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいいます。

    または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦といいます。

    具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、 実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言えます。
    ④道諦

    道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、 これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道です。

    その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道です。
    キリスト教について
    キリスト教とはイエスの教えと奇跡に基づいた宗教です。イエスとはキリストのことです。「キリスト」ととは油を塗って聖別された者という意味があります。キリストとはイエスの姓ではありません。イエスは父なる神様により油で聖別され、この世に来られ、また旧約聖書の律法と預言を成就され、十字架上で死なれ、そして肉体的に死の状態から蘇られました。イエスが行われた多くの奇跡は目撃者達にっよって福音書に記録されています。イエスの性質は人であると同時に神でもあります。したがってイエスは2つの性質を持たれ、人からの礼拝と祈りを受けるに値するお方です。
    キリスト教は、実在する全てのものの中で神はただお一人であり、その神が宇宙、地球、そしてアダムとエバを創造されたと教えています。神はご自身の姿(イメージ)に似せて人を創られました。しかしだからといって神に肉や骨の体があるということではありません。イメージとは類似した神の特性や良識等ということです。私たちは神様のイメージであるようにと創造された為、全ての人は尊敬と誉れに値します。更に、これは私たちが無作為なプロセスを経て単細胞の有機体から理性的、そして感情的な人間に進化しなかったということを意味します。
    神はアダムとエバを創造され、そして彼らをエデンの園に住まわせました。また神は彼らに善と悪を選択する自由を与えられました。彼らは罪を犯す選択をしました。罪とは神様の性質と意思に反することを行うことです。例えば、神様は嘘をつく事が出来ないため嘘つきは罪になります。アダムとエバは神様に反抗するという罪を犯したことによりエデンの園から追放され、またいずれ死ぬという結果をも招くことになりました。
    彼らの罪の結果、彼らの子供たち、そして私たち全てが罪の性質を継承しています。言い換えれば、私たちの子孫は完全な性質ではないということです。考えてみてください。私たちは子供たちにわがままになることや嘘をつくことをわざわざ教える必要がありません。彼らはそれらのことを自然と習得し知っているのです。このことは私たちが堕落した状態に生まれたということを示しています。
    キリスト教は神は三位一体(父、子、そして聖霊。しかし3人の神というわけではない。)であると教えています。またイエスキリストは三位一体の第二の人格であられ、イエスは十字架上で死なれ、肉体的に死から蘇られ、全ての人々は神に対して罪を犯したため神の正しい裁きの下にあると教えています。イエスだけが後に来る神からの裁きから救われる道であり、救いはキリストが十字架上で成し遂げてくださった御業を信じることによって与えられます。私たちは自らの行いによって神を満足させることは決して出来ないのです。
    世の中の他の全ての宗教は、私たちは神の御前に行くためには自らの何か良い行いによって、また神の協力により到達しなければならないと教えていますが、キリスト教だけが救いは神の恵みのみによると教えています。これは私たちが神の御前で、自らの努力や誠実さ、また働きによって正しい者とされないことを意味しています。その代わり、私たちはキリストが十字架上でなして下さった御業により神の御前に正しい者とされるのです。
    更にキリスト教は、一度生まれ変われば(救われれば)聖霊が私たちの中に宿ってくださり、私たちを変えてくださると教えています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5:17)これは神様が実際にクリスチャンの中に住んでくださり、そして真の、また生きた神様との繋がりを経験することが出来るということを意味しています。
    したがって、「キリスト教とは何か?」という問いかけにはこのように答えることが出来るでしょう。キリスト教とはイエスキリストによって与えられた真実で生きておられる神様との結びつきのことです。私たちはそのイエスキリストにより罪が赦され神の正しい裁きから逃れることが出来るのです。

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