ムソルグスキー「展覧会の絵」

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    資料紹介

    モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)
     1839年3月16日地方の、軍人を輩出した貴族の家系に育ち、その末っ子としてロシアのカレウォで生まれる。6歳のころから母親にピアノを習っていたが、軍人を志し1852〜1856に士官学校在籍する。その仕官学校時代に音楽に目覚める。この時期に、のちにロシア国民楽派5人組の一員であるボロディンと出会う。また、有名なロシア人作曲家、ダルコムイシスキーのサロンに出入りするようになり、バラキレフやキュイらとの親交が始まる。バラキレフから指導を受け、作曲家としての才能も磨かれるようになった。その後兵隊になったが、バラキレフの勧めで除隊し、音楽活動に専念。
     しかし、間もなく“農奴解放令”が出され、地主だった実家が没落し、貧乏生活を強いられるようになる。だが、役人として省庁に勤めながら、バラキレフ、ボロディン、キュイ、リムスキー=コルサコフとともに、いわゆる「ロシア国民楽派5人組」を結成し、音楽活動を行い、作曲家としての地位を着々と築き上げた。その中でも大胆で斬新な作風を切り拓いた存在として注目を集めていた。
     26歳のときに母親が亡くなり、この頃からお酒に走り始める。31歳のころ建築家兼画家であったハルトマンと知り合い、意気投合する。しかし、ムソルグスキーの人生は多難で、“5人組”の中でも作曲をめぐるトラブルが起こり始める。さらに、知り合ってからわずか3年でハルトマンが亡くなった。その翌年に大々的にハルトマンさんの遺作展が開かれ、このときの印象を曲にしたのが組曲“展覧会の絵”である。
     その後も作曲活動を続けたが、軍人時代に身に付けた悪癖である飲酒が原因で、アルコール中毒になり、風変わりな性格ゆえ交友関係でも多くのトラブルを起こしていたため、物質的にも恵まれず、苦しい生活を送っていたと言われている。

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    ムソルグスキー「展覧会の絵」
    モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)
     1839年3月16日地方の、軍人を輩出した貴族の家系に育ち、その末っ子としてロシアのカレウォで生まれる。6歳のころから母親にピアノを習っていたが、軍人を志し1852~1856に士官学校在籍する。その仕官学校時代に音楽に目覚める。この時期に、のちにロシア国民楽派5人組の一員であるボロディンと出会う。また、有名なロシア人作曲家、ダルコムイシスキーのサロンに出入りするようになり、バラキレフやキュイらとの親交が始まる。バラキレフから指導を受け、作曲家としての才能も磨かれるようになった。その後兵隊になったが、バラキレフの勧めで除隊し、音楽活動に専念。
     しかし、間もなく“農奴解放令”が出され、地主だった実家が没落し、貧乏生活を強いられるようになる。だが、役人として省庁に勤めながら、バラキレフ、ボロディン、キュイ、リムスキー=コルサコフとともに、いわゆる「ロシア国民楽派5人組」を結成し、音楽活動を行い、作曲家としての地位を着々と築き上げた。その中でも大胆で斬新な作風を切...

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