GID医療との距離の取り方

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    GID医療との距離の取り方
     私は今まで、このサイトでも他の掲示板でも、性同一性障害(GID)医療に関する問題については、なるべく発言を避けてきた。それは、一つには今まで私自身がGID医療については非当事者であったこと、もう一つには、この国にはガイドラインに準拠した医療と、準拠しない医療(いわゆる闇治療)が並存し、発言によっては非常にセンシティブな問題を惹き起こしかねないことを懸念してのことだった。  それでも、私はGID医療については常に関心を持ち続けていたつもりだし、傍論としては論点として扱ったこともある。しかし、常々感じるのは、当事者はGIDの診断書を持っていなければならないか否か、またガイドラインに準拠した医療を受けていなければならないか否か、という神学論争の不毛さである。どうも当事者の間に、医療を権威と感じて、社会生活に関する事項も含めてすべてを医療に委ねてしまうか、あるいは逆に、医療に対する感情的な反発から、診断やガイドラインを全否定してしまうか、という二分法的なリアクションがあって、医療との適切な距離をつくれずにいるように思う。  この国においては、よく知られているとおり、1969年にいわゆる「ブルーボーイ事件」おいて、いまでいう性別適合手術(SRS,俗に言う性転換手術)を行った医師が、当時の優生保護法(現:母体保護法)違反、すなわち正当な理由なく生殖能力を喪失させた罪で有罪判決を受けて以来、1996年の埼玉医科大学・日本精神神経学会による、性同一性障害治療に関する答申の公表までは、SRSは「正規の」医療行為としては社会的に承認されていなかった経緯がある。そして、これ以前の当事者は、というより今でも少なからぬ数の当事者がそうであるが、口コミ等で知ったいわゆる国内における「闇治療」、あるいは海外での施術に頼り、ホルモン療法や性別適合手術を受けてきた。  これが1996年の答申以降どう変化していくかというと、ガイドラインに沿った医療を行う「ジェンダークリニック」の絶対数が不足しているにも拘わらず、医療の段階はともかく、GIDの診断を受けない当事者やガイドラインに乗らない医療を受ける当事者を激しく攻撃する当事者や、かたくななまでに医療の側が提示したライフスタイルを守ろうとする当事者が現れてきた。  一方で、医療機関による診断を待たずにホルモン療法を行う者は後を絶たないし、最低でも数年待ちという国内での「正規の」性別適合手術をあきらめ、海外やいわゆる「闇治療」を選択する者も多い。  また、医療への不信から、性別の自己決定権のようなものを根拠に、トランスジェンダーの問題への医師の関与を否定する立場の者も、少なからずいる。  ここで、診断や治療に関するガイドラインの存在意義を考えてみると、医師の側から見れば、施術が本来なら母体保護法や、刑法の傷害罪など、刑事法上の構成要件に該当するところ、それを正当行為として違法性を阻却する、ひらたくいえば医師が刑事責任を問われないようにするための要件である。  一方、当事者の側からみると、ガイドラインは、医療処置を受けるにあたって、本来は自己の身体の処分は自由であるところ、十分な熟慮に基づいた意思決定をしない間に医療を受けないための、パターナリスティック(自己保全のための後見的な)な制限である(この点については小論 「性別の自己決定」 を参照されたい)。  もっとも、ガイドラインは一旦成立すると、法規範ではないにせよ(もちろん刑法上の正当行為に該るかどうかの基準になるという点ではそう考える余地はある)、社会的

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    GID医療との距離の取り方
     私は今まで、このサイトでも他の掲示板でも、性同一性障害(GID)医療に関する問題については、なるべく発言を避けてきた。それは、一つには今まで私自身がGID医療については非当事者であったこと、もう一つには、この国にはガイドラインに準拠した医療と、準拠しない医療(いわゆる闇治療)が並存し、発言によっては非常にセンシティブな問題を惹き起こしかねないことを懸念してのことだった。  それでも、私はGID医療については常に関心を持ち続けていたつもりだし、傍論としては論点として扱ったこともある。しかし、常々感じるのは、当事者はGIDの診断書を持っていなければならないか否か、またガイドラインに準拠した医療を受けていなければならないか否か、という神学論争の不毛さである。どうも当事者の間に、医療を権威と感じて、社会生活に関する事項も含めてすべてを医療に委ねてしまうか、あるいは逆に、医療に対する感情的な反発から、診断やガイドラインを全否定してしまうか、という二分法的なリアクションがあって、医療との適切な距離をつくれずにいるように思う。  この国においては、よく知られているとおり、1969年にいわゆる「ブルーボーイ事件」おいて、いまでいう性別適合手術(SRS,俗に言う性転換手術)を行った医師が、当時の優生保護法(現:母体保護法)違反、すなわち正当な理由なく生殖能力を喪失させた罪で有罪判決を受けて以来、1996年の埼玉医科大学・日本精神神経学会による、性同一性障害治療に関する答申の公表までは、SRSは「正規の」医療行為としては社会的に承認されていなかった経緯がある。そして、これ以前の当事者は、というより今でも少なからぬ数の当事者がそうであるが、口コミ等で知ったいわゆる国内における「闇治療」、あるいは海外での施術に頼り、ホルモン療法や性別適合手術を受けてきた。  これが1996年の答申以降どう変化していくかというと、ガイドラインに沿った医療を行う「ジェンダークリニック」の絶対数が不足しているにも拘わらず、医療の段階はともかく、GIDの診断を受けない当事者やガイドラインに乗らない医療を受ける当事者を激しく攻撃する当事者や、かたくななまでに医療の側が提示したライフスタイルを守ろうとする当事者が現れてきた。  一方で、医療機関による診断を待たずにホルモン療法を行う者は後を絶たないし、最低でも数年待ちという国内での「正規の」性別適合手術をあきらめ、海外やいわゆる「闇治療」を選択する者も多い。  また、医療への不信から、性別の自己決定権のようなものを根拠に、トランスジェンダーの問題への医師の関与を否定する立場の者も、少なからずいる。  ここで、診断や治療に関するガイドラインの存在意義を考えてみると、医師の側から見れば、施術が本来なら母体保護法や、刑法の傷害罪など、刑事法上の構成要件に該当するところ、それを正当行為として違法性を阻却する、ひらたくいえば医師が刑事責任を問われないようにするための要件である。  一方、当事者の側からみると、ガイドラインは、医療処置を受けるにあたって、本来は自己の身体の処分は自由であるところ、十分な熟慮に基づいた意思決定をしない間に医療を受けないための、パターナリスティック(自己保全のための後見的な)な制限である(この点については小論 「性別の自己決定」 を参照されたい)。  もっとも、ガイドラインは一旦成立すると、法規範ではないにせよ(もちろん刑法上の正当行為に該るかどうかの基準になるという点ではそう考える余地はある)、社会的な規範になりうる。すなわち、一旦成文の形で成立すると、社会的にみて「性同一性障害」というものがある類型として確立されるわけであるから、今度は当事者の方がその類型に合わさなければならない場面が出てくる。  例えば、いまだに異性装が反社会的な変態行為と見なされるなかで、「正当な」異性装のために、診断のガイドラインに合わせて診断を受ける例が増えつつある。  また、治療に関しては、SRSなどの治療を受けるために、医師の側が提示したライフスタイルに自らを合わせるという話も聞く。さらに、将来戸籍上の性別記載の訂正が、ガイドラインに従った形でのSRSを要件に認められるなら、ガイドラインの社会的規範としての性格はより強まる。  ただ、このようにガイドラインの社会的規範化が進むと、医療を受けるか受けないか、あるいはどのような医療を受けるかという個人の選択が、どうもゆがめられるのではないか。  まず診断について、診断は一次的には、治療が必要か否かを示すものである。であるから、治療を必要としない者は、本来診断は必要でない。もっとも職場での認知や改名など、社会的理由で診断が要求される場面は増えつつあるが、医師が個人の生活に介入すべきものであろうか。  また、治療について、確かに医療処置として医学的に適切でないにも拘わらず、医療行為を行う医師は、制裁の対象となってしかるべきである。しかし、医療は本人の福利のため行われるものである。本人が自己の責任でガイドラインに沿わない医療を受けた場合、それによる身体的な不利益(副作用など)は本人が受ければよいわけであって、社会の側が本人に対し、社会的制裁を加えるべきではない。  一方、これとは反対に、他の精神障害一般にも言えることであるが、精神科の受診については、未だに社会的な偏見も根強く残っている。内科的疾患に比べて、精神疾患は社会的偏見の対象となりやすく、性同一性障害についても例外ではない。戸籍訂正をはじめとする、GIDをもつ者を社会的に受け入れる体制の整備が進まないところには、やはりこのような問題の存在を認識せざるを得ない。  それどころか、精神医学界内部でさえ、GIDが偏見の目で見られているところさえあるという。実際に、性同一性障害を専門に扱う医師の数が遅々として増加しないことは、このことを物語っている。  このようなことから、受診を躊躇する当事者もまだまだ多いし、とりわけ医療処置を望む当事者にとって、このような偏見はまだまだ高いハードルである。  思うに、他の医療についてもいえることかもしれないけれども、当事者が医療を権威ともみずに、逆に医療にかかることについて偏見を持たれずに、本人が必要としたときに、適切な医療処置を受けられる社会になっていく必要がある。なぜならば、自分の身体は自分で管理すべきだからである。  医療を受けるも受けないも、本人の自由な意思に委ねられ、医療を受けたまたは受けなかったことによって、社会的に不利益を受けない、そういうような、医療と個人が適度な距離を置ける社会になるのは、いつの日だろうか。 参考: 性同一性障害に関する診断と治療に関するガイドライン 第2版 (日本精神神経学会)
    (Sep.2002)
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/ge021.htm

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