〈神〉と〈生〉と〈死〉  ―中世仏教を中心に―

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    資料紹介

    〈神〉と〈生〉と〈死〉  ――中世仏教を中心に――
                         
    目次
      はじめに
      1、中世の身体に対する視線 ――九相死絵巻と鎌倉彫刻――
      2、中世の死のイメージ
      3、生と死に対するイメージの緊張
      おわりに
      
      参考資料
    はじめに
    人というものは死から逃れる事はできない。そして逃れられぬ一つの終焉に、あるいは恐怖を抱き、あるいは目を背き、あるいは楽園へと続く道を信じる。その捉え方は十人十色であるが、それは人が死の経験というものを自ら持って語ることが出来ないからである。経験したこと、見たこともないものを〈なに〉であるか決定する事は難しいし、また〈なにでもない〉とするにはあまりにも人は弱い。
    それぞれの国や地域などの文化で多少は違えども、宗教はこの生と死の問題と密接に関係して存在している。しかし、現代日本では宗教が日常に溶け込み過ぎているせいか、その存在を意識することは難しい。仮に「貴方の宗教は何ですか?」と尋ねられたとしても即座に答える事ができない。一つの確定した何かを信じているわけではないからだ。現代日本では仏教、神道を同時に信仰している(勿論信仰しているという意識は低いが)、つまり神社にもお寺にもお参りに行く人が大半であろう。さらにいえば、クリスマスも祝うし、結婚式では教会の選択肢もある。そこにキリスト教への熱心な信仰を持っている人は少数だろう。いわゆる信仰意識は低いものの結果として「多重信仰」の形となっているのが現状である。
    信仰の意識が低いというのは、例えば受験の時には神社に詣で神様にお参りし、合格祈願のお札を求めるという良く見られる光景に象徴されている。つまりその人がお墓参りにお寺に行ったところで怒りだす日本人は少ない、明確な区分においてその宗教を信じている意識が低いからこのような光景が日常となり得るということである。
    言い方が可笑しいかも知れないが、我々は用途に応じて(仏と神は別ではあるものの)〈神〉を使い分けているのではないだろうか。思想や教えなどの〈中身〉を取り払い、自身の願いや守ってもらう事にのみ〈神〉を持って来る。八百万の神などとは言うがそこに〈神〉に対する本来的な畏怖の念は薄くなっている。
    また〈中身〉がなければ当然、死後の世界にスポットが当たるわけもなく、救いも伝わらない。むしろ死後の世界など〈非科学的〉であり〈オカルト的〉イメージを拭えない。現代日本人が宗教という言葉に抱く複雑な気持ちがあるように思える。〈中身〉のない倫理観、罪の意識の欠如に、遠藤周作をして「神なき日本人の弱さ」と言わしめたが、本来であれば〈正〉がなければ〈異端〉も存在しないはずなのである。
    宗教に関して言えば確たる自国の信仰がない状態(こそが日本の信仰の形かもしれないが)なので、比較的日本は寛容に見える。昨今話題になった〈もったいない〉精神であろうか、祈って助けてくれるのなら誰の手でも多い方が良いのかもしれない。しかしそんな日本では、いざ他国が入って来るとなると非常に敏感である。実質のない状態であれば〈利〉であり広く他国の文化も吸収するが、直接的な関係は苦手とするのか、まだまだ腰が引けて〈害〉に目を向けがちになる。文化と文化の本質的な〈衝突〉は避け、まるで仮面を被る様に形や形式的なところは借りて(このところを以って他国から日本の実体が見えづらいとされるのではないだろうか)いく。つまり強いて言うなら日本は非常に貪欲な、上辺すくいの良い所取り志向の国なのである。
    このように〈核〉を持たない日本には、それ

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    〈神〉と〈生〉と〈死〉  ――中世仏教を中心に――
                         
    目次
      はじめに
      1、中世の身体に対する視線 ――九相死絵巻と鎌倉彫刻――
      2、中世の死のイメージ
      3、生と死に対するイメージの緊張
      おわりに
      
      参考資料
    はじめに
    人というものは死から逃れる事はできない。そして逃れられぬ一つの終焉に、あるいは恐怖を抱き、あるいは目を背き、あるいは楽園へと続く道を信じる。その捉え方は十人十色であるが、それは人が死の経験というものを自ら持って語ることが出来ないからである。経験したこと、見たこともないものを〈なに〉であるか決定する事は難しいし、また〈なにでもない〉とするにはあまりにも人は弱い。
    それぞれの国や地域などの文化で多少は違えども、宗教はこの生と死の問題と密接に関係して存在している。しかし、現代日本では宗教が日常に溶け込み過ぎているせいか、その存在を意識することは難しい。仮に「貴方の宗教は何ですか?」と尋ねられたとしても即座に答える事ができない。一つの確定した何かを信じているわけではないからだ。現代日本では仏教、神道を同時に信仰...

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